ホーム >  『81章』目次 >  第1部目次 >  第15章

第15章 持続の感情

注釈へ

これまでの展開は、明らかに次ぎの結論を目指してゐる。時間についての本能的な知識は、常に、規則的な続きについての何らかの考へと、また、制度の何らかの手助けを想定してゐる、といふことだ。しかし、この知識は誰もが毎日確かめてゐるものだが、その他に、我々には我々自身の時間についての、よりうまく言へば、我々の持続(durée)あるいは老いについての、より身近な経験があるのではないかと、自らに問ふべきだ。この検討で、純粋心理学とはなにか、また、心理学者と彼等が主知主義者と呼ぶ者達との議論はどのやうなものか、ある程度思ひ描くことができる。

そこで、外部の客体を捨象して、自分自身が精神統一のなかで経験するところだけを知らうとする。さらに、この夢見る考へから、秩序だつた日付のある思ひ出を、つまり客体の形を持つもの全てを、消さうとする。経験するところだけを見つめ、それが何処から来るか、何を意味するかを知らうとはしない。短時間、そこに達すると期待できる。すると全ては混ざり、色は客体ではなく、薔薇の香りも同様だ。全ては私の中の、私にとつての、私の印象でしかない。つまり私は、ただ主体の前にゐる、あるいは、いはゆる純粋主体の中にある自分を見出す。少なくともそれに近付く。そして、動き、客体の変化、まして星や時計については考へないのだが、それでも私は自分の中にある時間を直かに感じると思はれる。まづ、私の印象が変はると、直ちに最初の印象は、全てが過去の性格を持ち、言はば、やつて来る印象により過去へと押しやられる。しかし、何の変化が無くても、自分の感じるところを見つめれば、それだけで、その他のものを少し照らすこの省察は、その他のものとともに新しい今の瞬間を成し、省察の無い別の状態はすぐに過去へと滑り去る。この瞬間の連鎖、前から後へと滑る連鎖は、すぐにある種の夜へと落ちる。

さらにかうも言へる。私がこの経験を持たなければ、人が私に時間のことを話しても無駄だ。と言ふのは、動きは時間ではないからだ。私の腕時計の針は位置を変へるが、時間を示すのではない。時間の特質は、取り返しのつかない変化だといふ点だ。過去の瞬間は決して現在になることはできない。全ての印象が戻つて来ても、私はそれを既に経験した者だ。春は、すでに何度もそれを見た者を訪れる。この意味で、全ての意識は老い、なす(すべ)は無い。我々が、全ての生き物が老いるのを見るやうに。真の時間とはかうしたもので、動きは我々にその心像を提供するに過ぎないだらう。この時間は私の中にしかなく、私のためだけだ。物体を思ひ浮かべると、その部分が、何百万回でも、最初の状態に戻ることを考へることができる。何も過ぎ去らないことになる。だが、証人たる私にとつて、二番目の印象は最初の印象の代りにはならない。それに加はるのだ。私は老いる、積み重ねるからだ。

かうした注意は、もつと洗練することができようが、時間についての考へを完全に書き表すことに役立つ。その材料となるのだ。実際、読者に対して、我々の中で瞬間は時計の針が辿(たど)る秒のやうに並存するのではないことに注意を促すのが良い。しかし、また、私が描かうとした、この純粋な感情の生活は、眠りへと、すなはち無意識へと向かふことを理解しなければならない。我々には、それを形の下でしか、そしてまた、空間と運動から、すなはち客体から引出した比喩によつてしか、掴み、描くことができない。かうして、意識の統一なしでは、客体が、その区別できる部分と変化とを持つて我々の前に広がることはないと思はれる。何故なら、一つの物はそれでしかないが、私は全てだ。逆に、主体の統一は、客体の知覚なくしては決して現れない。カントの最も長い、最も難しい思索が辿りついたのは、ここだ。

そして、私には、かなり強い言ひ方で、人は自分自身しか思ひ出さないといふことも同様に正しいと思はれる。だが、また、物しか思ひ出さないといふことも。物の真実だけが我々の内なる持続に意味を与へる、運動の心像だけが私が腕を伸ばしたときに感じるものに意味を与へるのと全く同様に。最後に、私は意識を持つ限り、いつまでも悟性である。これが目指すのは、やや安易に過ぎ、かなり子供じみた分け方、それによれば、例へば、我々はある時には考へることなく感じ、ある時には感じることなく考へることができる、さうした分け方を消し去ることだけだ。分けて、つなぐ、それも同時に、これが哲学的な探求の主たる困難だ。


第14章 < 第15章 > 第16章

ホーム >  『81章』目次 >  第1部目次 >  第15章

Copyright (C) 2005-2007 吉原順之