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第3章 觀察者の悟性

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題の原文は l'entendement observateur ですから、直訳すれば観察する悟性、あるいは、観察者たる悟性と言つたところでせうか。この章の論旨は明快なので、翻訳では微妙な感じが分かり難い部分について補足をするに留めます。

第一段落の初めの方に、「大哲學者達が巧に説いた樣に」といふ部分がありますが、「大哲學者達」と訳されたのは les grands auteurs です。前の章では les auteurs が「學者達」と訳されてゐました。アランの文章では les auteurs だけでも、立派な先達といふ意味合ひで使はれてゐる例が多いやうです。

第一段落の最後は

若し、僕が、波を呑氣に走らせて置いたなら、波の反射は奇跡にすぎなかつた筈だ、法則が姿を消すと同時に物の姿は無くなつてゐた筈だ。

と仮定で訳されてゐますが、原語ではフランス語文法でいふ半過去になつてをり、

波を呑氣に走らせて置くと、たちまち波の反射は奇跡にすぎなくなつた、法則が姿を消すと同時に物の姿は無くなつた。

といふやうに、アランの実際の経験として読む方が近いでせう。

第ニ段落の半ばに、

この地球や地球の軸とか極とか子午線とか赤道とかいふものだ。

といふ部分があります。原文では

Je veux parler de cette sphère céleste, seulement pensée et posée, nullement existante, de cet axe du monde, de ces pôles, de ce méridien, de cet équateur

とあり、地球ではなく天球と、その 軸や極などを指してゐると思はれます。天球については、次のサイトが参考になります。 http: //www.astroarts.co.jp/alacarte/kiso/kiso02-j.shtml

第ニ段落の後半に次のやうな個所が出てきます。

例へば、星が今度はあそこに現れたといふからには、星の形が既に變つてゐなければならぬ、變つたからこそ、妙な形に見えるがやがて同じ星だと知覺するのだ。

ここは、以下のやうに訳すべき所でせう。

例へば、惑星の動きを再発見し、空想的な幻ではなく、きちんとした姿を感じ取るためには、型を変へなければならなかつた。

惑星は普通の星とは違つて天球の中をあちこち動きます。だから惑星といふのですが、その動きを捕まへるためには、天動説では無理で、太陽系の姿を思ひ描く必要があつた、それが、型を変へなければならなかつた、といふ言葉の意味するところです。

第二段落の最後の部分は、フランス語の慣用句の持つ元の意味と普通に使はれる意味とを活かしたもので、日本語には直し難いところです。小林訳では

平つたく言へばうまく言へる樣だが、物の外觀に物を見付けさせて置いて、實は自分の姿を見付けさせる形式なのである

となつてゐます。試みに、直訳してみると、

(形式は、)目に映るものの中に物を見出させ、そして、そこに自らを発見させるのだ、普段の言葉がうまく言ふやうに。

といふ具合です。そこに自らを発見させるのだ、と訳した部分は s’y retrouver で文字通りには、そこに自らを再発見するといふ意味ですが、自分がどこにゐるか分かる、むづかしい議論などについて行けるといふ意味にもなります。

文末の

若し無學文盲な人達が、頭で考へてゐるより上手に口を利かないとしたら、以上述べた樣な諸關係はもつと人目に付き易くなるのであるが。

といふ文章は、様々な読み方ができさうですが、上に挙げた例に見られるやうに、普段の言葉には人々の知恵が埋め込まれてゐるので、あまり考へないで口を利いてゐても、正しい観察に基づく結論と同じことを話してゐる、といふことかなと思つてゐます。


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