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第1章 判斷

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判断とは何か。アランはこの章の最後で「證明によつて強ひられるのを待たぬ決断」であり、

大膽な命令によつてその輪郭を判然と完成し、人間が人間に負ふ處のもの、人間の推知するもの、人間に未知なもの、凡てを斟酌しんしゃくし、恐怖もなく自ら危險に身をさら

ものだと言つてゐます。

アランはこの判断といふものを大変に重んじた人です。最初の段落では、教育が判断力を損なふことを指摘してゐます。過去の文明の重さが自発的に学ぶ力を潰すのだと言ひかへても良いかもしれません。情報が殖えた今日では、尚更大きな問題になつてゐるとも言へるでせう。

勿論、判断は望むとほりに行ふものではないが、意思のないところに判断は無い。第二段落では、すでに知られてゐる証明でも

僕にとつて眼前の死物に過ぎない事も屡々ある。

と述べて、

その證明を蘇生させるには餘程の骨折りが必要だ。

と言ひます。さうして蘇つた証明は、いつも新しい姿を現す。

現代の科学は、神経回路やシナプスなどから、あるいは過去の経験から、判断を説明しようとする強い傾向を持つてゐます。部分から全体を説明するのです。アランは逆に、判断が無ければ眼に映るのは混乱に満ち満ちた世界であるなどと言ふやうに、判断する一つの主体の独立性を強調します。

最初の段落に次のやうに訳されてゐる文があります。

彼等は、 質問責めにも會ひ、相手の言ひ分をいちいち聞いて、理解もするが、證明の押賣りにつけ込まれぬ樣な斷乎たる注意力で、各人の言ひ分を結び合せまとめ上げる、さういふ術を知つてゐるのだ。

この部分は原文が分かり難く、自信は無いのですが、次のやうに読むこともできると思ひます。

迷惑し、一部を聞いて理解して ゐても、我慢して、部分を繋ぎ合はせたり、証明の商売人が目を覗き込みながら狙つてゐる決定的な注意力によつて辻褄を合はせたりしないでゐられる。

纏め上げるか、それを避けるか、全く逆の読み方です。その後の文との繋がり具合を見れば、小林訳も頷けるのですが。

第二段落の最後に引用されてゐるデカルトの言葉は『方法序説』の第二部に出てくるもので、確かなものだけを積み上げようとするデカルトが自らに課した四つの戒律の三番目にあります。


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