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第10章 懷疑

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デカルトが懐疑を自らの哲学の核としたことは良く知られてゐます。この章は、さうした懐疑について述べてゐるのですが、アランは、この懐疑が強さであり弱さではないこと、また、一度疑へば済むといふものではなく、「苦勞だけが立派なのだ」といふことを繰り返し述べてゐます。

小林秀雄「アラン「大戰の思ひ出」」の中に、かうあります。

ジイドにしても、アランやヴァレリイにしても、その分析や類推には、いかにもフランス人らしい鮮やかさや纎細さがあつて、先づさういふものが讀者の眼を惹くから、非常に頭はいヽがくみし易い人だ、といふ風につい思ひ込むのだが、少し奥の方を覗けば決してそんなものではない。決意に充ちた野人が立つてゐる。

第六章の「精神と身體の一致」で

在るが儘の奴隷の境遇を受取る。愛しもする。

と言ひ、ここで

眞面目に疑ひ給へ、悲し氣に疑ふな。

と語るアランは、確かに「決意に充ちた野人」といふ形容がぴつたりだと思はれます。

話はそれますが、「アラン「大戰の思ひ出」」には次のやうな文も出てきます。

原文で讀まれるにせよ、翻譯で讀まれるにせよ、例へば、アランならアランの思想を、アランといふ現に今生きてゐる獨特な一フランス人に密着して離し難いといふ點まで下つて、これを理解しようとする心構へがなければ、何にもならないと思ふ。

小向さんが言はれる「テクスト論から遠く離れた小林秀雄」が、ここでも顔を出してゐますね。


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