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第1章 幸福と倦怠

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先づ、第五部の表題「情熱」について。passion といふ言葉を小林秀雄はかう訳してゐますが、情念と訳するのが普通かもしれません。情熱と言ふと、前向きな力も感じますが、passion は心が乱れてうまく制御できない程の状態を指します。

この章でアランが主張するのは、

たヾじつとして受取るだけで面白い事はない、自分でやつてみれば、たとへ毆る毆られるといふ樣な事でも面白くない事はない。

といふことです。あるいは、

僕等が喜びを得たのは僕等が望んだからであり、僕等の喜びを望んだからではない。

これは前回の「苦勞だけが立派なのだ」と同じ考へだと言つて良いでせう。ちなみに、小向さんが紹介されたやうに、この部分の原文は、

≪ C'est la peine qui est bonne ≫, disait un ancien.

で、「苦労こそが良いのだ」と古人も言つてゐた、といふ意味ですが、この古人といふのはディオゲネスで、アラン『幸福論』の42章、44章に出て来ます。

退屈してゐる人間とはどのやうな人間か、アランは以下の三つを挙げてゐます。

  1. 沢山いろいろな物を苦もなく得てゐて、苦労して得た人達は羨ましがつてゐるだらうと思つてゐる
  2. 趣味に不自由してゐない
  3. 自制力のない男ではない

かうした特徴の結果、自分は幸せな筈だといふ痛ましい観念を持ち、趣味の良さから自分の絵や歌の拙さに喜びを失ひ、自分は幸せになれないといふ思ひ込みから天性の発露を抑制してしまふ、といふのですが、なかなか面白い分析だと思ひました。かういふのは、モラリストの伝統やバルザックの小説などから学んだところではないかと想像してゐます。

翻訳の問題を一つだけ。第三段落の始めの方に「恐らくあらゆる情熱のうちで一番原因の不明なものに屬する。」とありますが、<恐らく全ての情念の隠された源である。>と読むべきでせう。


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