皆さんは「自愛」といふ表題から、どのやうな議論を想像されるでせうか。アランは、かう話を始めます。
世間では、自分に滿足した人間がゐるといふ事を言ふが、僕はそんな人を一度も見た事がない。
その次に、小林訳では
繰返し他人から讚められる必要を感じてゐるのは、馬鹿者に限る。
とありますが、この読み方には異論があり得るでせう。他人から誉められる必要を認めないといふのは、如何にも小林秀雄らしい解釈なのですが、多分、ここは、
繰返し他人から誉められる必要を感じてゐるのは、馬鹿者だけではない。
と読むのが正しくて、だれでも自分に不安を感じてゐるので、他人の讃辞が嬉しいのだ、といふことを言ひたいのだと思ひます。
アランは、ただ、かうした「
第三段落の半ばに、
生活が愛するのであり、人が愛するのが生活ではないからだ。
といふ文があります。「生活」と訳された言葉は la vie ですが、生きてゐること、生きてゐる状態といふ意味に解して、
生きてゐるから愛するので、生きることを愛するのではない。
といふ風に読んだ方が、分かり易いかも知れません。
第二段落に出てくる
どんな對象も事物も自分ではない。僕とは主語だ、屬詞ではない。飾り付けの餘地はない。僕が爲るもの、それだけが僕のものだ。
といふ言葉は、アランの根本的な考へを述べたものです。
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