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第4章 自愛

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皆さんは「自愛」といふ表題から、どのやうな議論を想像されるでせうか。アランは、かう話を始めます。

世間では、自分に滿足した人間がゐるといふ事を言ふが、僕はそんな人を一度も見た事がない。

その次に、小林訳では

繰返し他人から讚められる必要を感じてゐるのは、馬鹿者に限る。

とありますが、この読み方には異論があり得るでせう。他人から誉められる必要を認めないといふのは、如何にも小林秀雄らしい解釈なのですが、多分、ここは、

繰返し他人から誉められる必要を感じてゐるのは、馬鹿者だけではない。

と読むのが正しくて、だれでも自分に不安を感じてゐるので、他人の讃辞が嬉しいのだ、といふことを言ひたいのだと思ひます。

アランは、ただ、かうした「阿諛あゆ追従」で安心を得るのは自愛ではなく虚栄心だと断言します。アランの自愛についての考へを一言で言へば、自愛、原語では l'amour de soi といふのは言葉を組み合せただけで、実体はないのだ、といふことになるでせう。

第三段落の半ばに、

生活が愛するのであり、人が愛するのが生活ではないからだ。

といふ文があります。「生活」と訳された言葉は la vie ですが、生きてゐること、生きてゐる状態といふ意味に解して、

生きてゐるから愛するので、生きることを愛するのではない。

といふ風に読んだ方が、分かり易いかも知れません。

第二段落に出てくる

どんな對象も事物も自分ではない。僕とは主語だ、屬詞ではない。飾り付けの餘地はない。僕が爲るもの、それだけが僕のものだ。

といふ言葉は、アランの根本的な考へを述べたものです。


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