ホーム >  小林訳注釈 目次 >  第6部 目次 >  第3章

第3章 誠實

翻訳へ

「誠實」といふのは sincerité の訳ですが、率直といふ意味で取る方が、この章の話題には合ふのではないでせうか。心に思ふそのままを口にするのは良いことかどうかが話題の中心ですから。

書かれてゐることは、言つてみれば大人の常識かもしれません。ただ、最後の二段落は少し込み入つてゐるので、私なりの理解を述べてみます。

最後から二番目の段落の冒頭では、相手の良いところだけを言ふべきであり、非難は口にしてはならない、といふ前段の主張への反論を取り上げ、

この種の心盡しを虚僞だと屡々人は言ふが、それも全然見當違ひの意見とは言へない。

と述べて、段落の主題を提示してゐます。

どのやうな場合に何かを言はないことが良くないのか。一つは、隠すことで悪意が強まる場合。もう一つは、「凡庸な話や習俗への阿諛あゆに復讐しようとする喋舌を内心に覺えるといふ事」がある時。後者は分かりにくいのですが、相手の話を黙つて聞きながら、心の中では「こいつは何て馬鹿なことを言つてゐるんだ」とか、「そんなお世辞をよく言ふよ」とか、心の中で言ひ返し、憂さを晴らしてゐるやうな場合を指すのだと思はれます。

アランの意見では、これは情念の最も激しい状態で、悲しみや怒りに、話すことに対する恐れや、相手が自分の気持ちを見抜くのではないかといふ心配が加はつてゐる。そのやうな混乱した心を抱へた人達は「澤山喋り乍ら結局何も言はぬ」ので、彼らと話すのは退屈だと言つてゐます。

では、どうすれば良いのか。それは礼儀を守るときには、礼儀を第一にして自分の気持ちにはこだはらず、できるだけ忘れてしまふことだ。

たゞ禮儀に服從する、つまり禮儀上隱さねばならぬ判斷は一切敢て表に現さず有耶無耶うやむやにして置くといふ限りで、禮儀の裡に道德がある。

といふ文章を意訳すれば、さうなると思はれます。中村雄二郎さんの訳では以下のとほりです。

人が礼儀に服従するかぎり、そして、礼儀上かくさねばならぬ判断はすべてそのままにし、消えるにまかせるかぎり、礼儀のなかには徳がある。

その後にでてくる、次の文章も同じ趣旨のことを言つてゐるのでせう。

從つて樣々な情熱を持ち、これを追求する者には禮儀は虚僞であるが、氣分だけを持つてゐれば滿足だといふ者或は本氣でさう努力をする者には、禮儀は誠實なものだ。

ここで「情熱を持ち、これを追求する」といふのは、自分の乱れた心にこだはる状態を、「氣分だけを持つてゐ」るといふのは、その時々に気分が変はるのは人間だから仕方がないとして、それを引きずらないことを、それぞれ指してゐるのだと思ひます。

神谷幹夫さん訳の『定義集』では、アランは以下のやうな言ひ方をしてゐます。なほ、神谷さんは sincerité を「真摯」と訳してをられます。

人が真摯といえるのは、話し相手を疑わないで、ゆっくりと自分の考えを説明する時間がある場合だけである。こうした友好的な状況以外では、もっとも真摯な人間は、誤ったことはなにも言わないこと、誤解されかねないことはなにも言わないこと、そして自分の考えていることはすべて、ほとんど黙っていること、またもちろん、確かな考えでないことは必ず黙っていることを、規則とするだろう。・・・(中略)・・・要するに、真摯は考え抜かれているか、それともなんでもないかである。

最後の段落に、「打明け話をせずにゐられないのなら常に作物に依るべきだ」といふ文がありますが、「作物」は<書き物>または<作文>の誤植だと思はれます。人に何か意見しようといふ時には、書いて渡すのがよいといふのが論旨なので。


第2章 < 第3章 > 第4章

ホーム >  小林訳注釈 目次 >  第6部 目次 >  第3章

Copyright (C) 2005-2006 吉原順之