この章でアランが展開してゐる正義論は、なかなか厳しいものです。
「どんな交換や契約にあつても、相手の立場に自分が立つて見る事、而も出來る限り自由な見地から、あらゆる君の知識に相談の上、相手の立場に立つたとして果たして自分はこの交換なり契約なりを是認するかどうか見極める事」
が鉄則であり、これを守れない者は、
金持ちになつた事で滿足してゐるがいゝ、正しくなる事は諦め給へ
といふのですから。
一番最後の部分で、
明らかに富は、常に他人が價値を知らぬ物を買つた、或は他人の感情や不幸を利用した處に由來する。
と言つてゐますが、経済学者は文句を言ふかも知れません。互いに納得してゐる取引によつても、富を増すことは不可能ではない筈だ、と。まあ、他人の無知や弱みにつけ込んで儲けてゐる人が多いのは事実でせうが。
他方で、最初の段落にある
正しい精神とは、小さな事物や小さな不幸を大した事とは思はぬ、人間の騒々しさとか不平とか阿諛とか輕蔑さへも大した事とは考へぬ精神だ
といふ指摘は、正義が硬直した原理の適用ではないといふ考へを窺はせます。
また、正義は「受入ねばならぬ何等かの存在」ではなく「外からの助けを何一つ借りないで、たゞ自分の力で」作り、作り直さねばならないものだ、といふのも、同様の考への表れでせう。アランでは、あくまで一人一人の一つ一つの決断が出発点なのです。
第三段落に
人々がめいめい他人に警告する權利を持つてゐる以上、どんな條件は人々に承知して貰へないか誰にも解らない。
と訳された文がありますが、
不正を指摘する権利を持たせておけば、人々が受け入れない条件といふものがあるだらうか。
といふ意味ではないかと思はれます。
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