ホーム >  『81章』目次 >  第6部目次 >  第4章

第4章 正義(正しさ)について

注釈へ

「正しい心 esprit juste」といふが、この表現は他者に対して求められる配慮以上の多くのものを含んでゐる。真つ直ぐな droit といふ言葉も同じやうに素晴らしい曖昧さを見せる。この大きな主題を最初に眺めるときに役に立つ警告だ。真つ直ぐなものは、それだけで一つの理念 idée なのだから。しかし、正しい心といふのは、ある理念を持ち、それを堅持して、その定義が経験で試されても決して曲げようとはしない心以上の何かである。正しい心とは、細かなことには重きを置かない心だと、私には思はれる。小さな不幸、お世辞、人々の騒ぎ、不平、軽蔑でさへも重く見過ぎない心であり、これは真つ直ぐな心がいつもできるとは限らないことだ。だからプラトンは、神のやうな人だつたが、正義については内側の調和と自らを良く治めることだけを考へようとした。彼の『国家』は主として正しい魂を扱つたもので、社会については挿話としてふれただけだ。この例に習ひ、私は、正義を何か既にあつて受け入れなければならないものだとは、決して考へないやうにしてゐる。正義は、他人の助けを何も借りず、自分自身で、知らない人、会つたことのない人も考慮に入れて、作り、また作り直さねばならないものだからだ。

力は不正そのもののやうに見える。しかし、力は正義とは無関係なのだといふ方が良いだらう。狼は正しくないとは言はないのだから。ただ、童話に出てくる理屈をこねる狼は正しくない。彼は認められたがつてゐるからだ。ここに不正が姿を見せる。それは精神を持つてゐると主張することだと言へよう。狼は羊が何も答へないこと、少なくとも裁定者が許すことを望んでゐる。そして裁定者は狼自身なのだ。ここでは言葉が我々に十分な警告を与へて呉れる。正義は判断に関するもので、成功とは係はりがないのは明らかだ。訴へるのは、言ひ争ふことだ。正しさを認めるのは、判断することだ。力ではなく、道理 raisons を量り比べるのだ。正義の第一は、従つて精神を調査し、道理を調べることだ。

先入観は、それだけで不正だ。贔屓された方も、自分が正しいと思つてゐる場合でさへ、相手方についてもその道理を誠実に調べて正しく扱はない限り、正しい裁定がなされたとは決して考へない。誠実にといふのは、あらゆる可能性を追ひ求めて、といふ意味だ。弁護士の制度はこれをかなり実現してゐる。訴へた者は、弁護士が彼の言はんとしたことを全てうまく言ふと、十分に満足してゐることがある。多くの者は、自らの過ちも同時に明るみに出されるのであれば、勝つことを望まない。また、彼らは相手方が議論する十分な機会を与へられることを望む。それがないと、権利を脅かされない所有者でも、ある種の不安を持ち続けることになる。所有しようとする熱狂は精神の熱狂であり、盗人よりも反対意見を恐れる。不正は正義と同様に人間的なもので、ある意味では正義と同じくらい大きなものだ。

かうしたことから、迫害は不正そのものであらう。全ての暴力ではなく、権利の主張を妨げるための暴力のことだ。そして不正にとつての大勝利は、認められ讃へられることである。だから、反乱は言葉から始まり、行動を起こすのは言葉を救ふために欠かせない場合だ。不正を指摘する権利を持たせておけば、人々が受け入れない条件といふものがあるだらうか。しかしまた、他の何よりも厳しく抑圧される過ちがある。それは専制者に逆らつて正しくあるといふことだ。正義には、我々と、自由で率直に認める力を持つた我々の同類との一定の関係が、そして我々が同じ力を持つことが、前提となつてゐることを心に留めておかう。

この簡単な考へでも、取引や全ての契約に応用できる。先づ、曖昧なものは何もあつてはならない。さうでないと、双方が認めても、同じものを認めてゐないことになる。また、嘘や偽りがあつてはならない。かうして完全な正義は、私が売る物について知つてゐることの全てを買ひ手に教へることを要求する。しかし、同様に、彼は代りに私に呉れる貨幣について知つてゐることを私に教へねばならない。自分が気づかずに受け取つた怪しい貨幣を渡すことは、罪ではないと考へる人たちを、私は知つてゐる。しかしそれは、渡す相手の自由な承認を確かめない限りは、正しいことではない。だから、契約相手が「知つてさへゐたら」と言ふことが決してない、といふのが決まりだ。さもなければ、金持ちでゐることで満足すべきだ。

その上、正しくあらうと試みるべきではない。ここには込み入つたことは何もないのだから。相手の承認が欠けた瞬間に、全ては明瞭だ。特に君自身が、相手は間違つてゐないと認める時には。間違ひは計算ではない。君自身がその瞬間にそれに気づかなかつたといふことは重要ではない。私は、善意で、つまりそれを知る手段がなくて、気づかなかつたときを言つてゐるのだ。私は額付きの古い版画を買つた。私はそこに隠されてゐるのを見つけた紙幣(札)を買つたのではない。それが誰の物かを知るのは簡単だとは限らないが、私の物ではないことは完全に明らかだ。ここで、精神がその判断者としての視線を何に向けるかがはつきりと分かる、と私には思はれる。それは物事の理念、双方に共通の理念へと向けられるのだ。売るのがある物で、同時に別の物であるといふことはあり得ない。裁定者はそこで決して間違へることはない。

相手方がよく知らないで承認する場合もあるのは事実だ。また、別の欲望や差し迫つた必要から同意する場合もある。浪費家が捨て値で売る場合や手に入れるとすぐに好きではなくなる場合のやうに。そこから、ほかの利益も出てきて、多くの人たちは躊躇ふことなくそれを持ち続ける。しかし、その場合相手方の承認は自由でも、持続的なものでもなく、同意したのは馬鹿げてゐると君自身も判断してゐるのだから、私はもう一度、金持ちでゐることに満足し正義は諦めろ、と言はう。ここでは君自身の判断が君を非難する。そこから良く知られた黄金律が出てくる。「全ての契約、全ての取引で、相手方の立場に自分を置け。君が知る全てを知り、人間に可能な限り拠ん所ない事情に縛られてゐないと仮定して、相手の立場で、この取引、この契約を認めるかどうかを考へよ。」人生には、かうした幸せな取引に満ちてゐる。ただ、人はそれに注意しないだけだ。しかし、富は常に、相手方がその価値を知らなかつた物を買ふことにより、あるいは相手のさわぐ心や不幸を利用したことから出てくるのは明らかだ。私は私の畳句に戻らう、金持ちでゐることで満足せよ。


第3章 < 第4章 > 第5章

ホーム >  『81章』目次 >  第6部目次 >  第4章

Copyright (C) 2005-2006 吉原順之