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第5章 さらに正義について

注釈へ

この黄金律は、物の取引での慣例が示唆したのだが、より大きな、人にまで広がる正義にもつながる。正義(正しさ)とは平等(等しさ)だ。私は、いつの日かさうなるかも知れない夢物語を言つてゐるのではない。正しいものであればどんな取引においても直ぐに成り立つ強者と弱者、知者と愚者の間の関係を言ふのだ。それは、より大きな全く損得抜きの取引により、強者、知者が相手の中に自らと同じ力と知恵があると仮定したいと思ふこと、さうして自分を助言者、判事、正義の味方にするといふことなのだ。この気持ちが売買の魂である。私は、騒ぎになるおとり商品や、対等の者たちの間だけで行はれる二重の嘘がある駆け引きを知らない訳ではない。が、子供に高値で売ることは誰もしない。せり売りや公開価格で払はれる注意からも、取引では等しい取り分になることが最高の決まりであることが見て取れる。投機の場合も、私は弱者に対する企みよりも同等の者達の間のやりとりだと見る。何よりも、混同してはならないのは、そこでは約束が必ず守られ、権利は等しく、尊敬や威厳は本物でも偽物でも無関係で、国といふものを知らない商人達の町と、儀式が多く、秘密で閉ざされており、嫉妬深く専制的な伝統的な社会だ。確かに、正義がかうして分けられ、商人達が寺院から追ひ出されるのは良いことだ。

大いなる者達が、取引よりも与へることを、言ひ争ふよりも投げ出すことを好むのが私には理解できる。この偽物の思ひやりは誤解してゐる。商人の正義の方が、本物の思ひやりを見せる。もし相手に自分の判断力を、それもできるだけ混じり気のないものにして、貸し与へなければ正義がないのだとすれば、自然に、相手の判断力の印を見守ることになるのだから。売る、買ふとは、説得することだ。同意のない売りは、判事の眼からすれば無効だ。しかし、契約相手の眼からしても、全く無効だ。彼が求めてゐるのは持つことではなく、自由で物が分かつた上での同意に基づいた所有権なのだから。さういふ訳で商人は、遺産の分配や正しい支払ひの問題が自分の判断に任されると、彼自身がさうならうと努めてゐるやうに賢明でさわぐ心から自由な人間と一緒に暮らし取引することを望む。農民のしつかりとした知恵が、たとへそれで損をしても財産の正しい管理の方を、たとへそれで得をする場合でも、いい加減な気楽さよりもずつと尊重するといふのは、かういふ意味だ。このやうに、権利は強く根を張つてゐる。

最善を前提とし、教へようと試み、いつでも約束を果たさうとするには、あと一歩で足りる。育てる élever といふのも、複数の意味を持つ美しい言葉の一つだ。この一歩はいつでも真の思ひやりにより踏み出される。最高の勇気を代償とし、狂者に対するときにも。しかし、よく先を見る力が、いつも正義を広げるのだ。これまで十分見てきたやうに、どんなに荒れ狂ひさわぐ心にも、その底には理性があるのだから。だから思ひやりは正義の予感に過ぎない。全き正義とは、正義の基礎と規則をいつでも前提とすることであり、要するに、全ての人間が自分と同様に知恵を持つことを望むといふことだ。相手が無頓着で、何でも信じ込み、いつでも満足してゐると気楽に想定することは、正しくはないのだから。従つて正義とは、平等を据ゑ、前提とし、これに気づくことである。人が思つてゐるよりも普通にあるこの眼差しが、優しさにも、追従にも、偽りの威厳や、役として巧まれた狂気にも止まることなく、警察の最も力のある判断者にも、最も軽蔑された犯罪者にも敬意を払ひ、より高い平等といふ理念の元に彼らを見るのを経験してゐる者は、是非を判断する者とはどのやうな者かをよく知つてゐる。


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