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第8章 智慧

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知恵とは何か。『定義集』では、アランは

怒り狂った判断を克服した徳

であり、

あらゆる種類の性急な判断や先入観に陥らないようつねにめざめている慎重さである

と書いてゐます。(神谷幹夫氏訳『定義集』岩波文庫146ページ。なほ、神谷さんの訳では、sagesse が「叡知」と訳されてゐます。)

この章は

智慧だけに頼る道德には、大膽さとか物を創出さうとする熱とかが缺けてゐる。

といふ注意から始まつてゐます。

賢明だといふに過ぎぬ智慧の德は、要するに過失に對する樣々な警戒の總和であつて、過失から生れぬ眞理は、少年時を持たぬ大人の樣なものだ。

と言つてゐます。いかにもアランらしい言ひ方だと思ひます。なほ「樣々な警戒の總和」といふ部分は、<賢いだけの賢者の徳は、どれもがこの失敗に対する用心である>と訳すのが良いと思ひます。

第二、第三段落では、知恵が力んだり硬直したりしない、柔軟な心の働きであることが強調されます。第三段落の

眞の觀察家は放心した樣に見える

といふ部分は小林秀雄が共感をもつて読んだところではないでせうか。

第三段落の最後に

だから、自分とは何者かと探索してはならぬ、そんなものは皆對象であつて君ではないのだから。

とありますが、対象といふのは objet の訳で、物とか客体とも訳され、主体である sujet に対する言葉です。人間の精神は客体ではなく主体だ、といふのはアランの基本的な考へ方です。

最後の段落は、謙遜について述べてゐますが、この中に、次のやうに訳された文があります。

だが、發見しようとする願望も亦一つの感情であり、他の感情並に精神を束縛すると解するのは、世の中を動かさうとする善意を諦める事であり、困難に處してたゞ弱々しい期待や祈願しか持てなくなる。

ここは、次のやうに読むのが正しいと思はれます。

しかし、見つけたいといふ欲も情念の一つであり、他に劣らず精神を縛るのだと知るといふのは、きつぱりと世間を驚かすことを諦め、難しい状況の中で、ただ謙虚に待ち、祈るといふことだ。

発見しようといふ情念が精神を縛るといふ見方を、小林訳では否定的に解してゐますが、アランの原文では逆に正しい考へとして書いてゐるやうで、中村雄二郎さんの訳もこの線になつてゐます。

この段落では、アランのキリスト教に対する考へ方が窺へます。

だが、他の樣々な作り話が、精神を次から次へと新しい恐怖や希望で忙殺し、この僧院の隱遁を靜かにさせては置かなかつた。これも無理にも愛して貰ひ度いといふ欲ゆゑだ。

とある部分がそれで、アランは修道院の質素な暮らしには敬意を払つてゐましたが、キリスト教全般には否定的でした。引用した部分の最後を直訳すると、<それは脅しで愛されたいと思ふことだ。>といふ風になりますが、要するに、天国やら地獄やらの作り話で人を脅し、神を信じさせようといふやり方だと批判してゐるのです。


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