題名のとほり、詩と散文とを対比して論じた章です。詩は演劇や音楽と同様に、儀式的なものとして描かれます。第一段落の、詩は聞くもので、読むものではない、といふ主張は分かりやすいものだと思ひます。
この段落で「脚韻は常に一歩踏み出す毎に感ずるさゝやかな不安に依つて僕を樂しませて呉れた」といふのは、うまく韻を踏みながら意味が通るやうな良い言葉が見つかるのだらうか、といふ不安を見事に解消してくれるといふ意味でせう。小林訳で「終るべき時に終る」となつてゐるのは、読み違ひだと思ひます。
第二段落で、雄弁も一種の詩であることを述べた後、最後の段落では、詩と対照的な散文を論じてゐます。聞く詩が我々を運んで行くのに対して、散文は読者が、画家のやうに、自ら中心や視点を選び、行きつ戻りつして、再構成するのだ、と。
末尾に
かうして散文は歩いて行く、正義の樣に跛をひいて。
といふ文があります。正義が跛だといふのは、古代ローマの詩人ホラティウスの「罰は跛をひいて罪の後を追ふ」といふ言葉を踏まへたもののやうです。この言葉は、ヴィクトル・ユーゴーやテオフィル・ゴティエも、
復讐は跛だ。ゆつくりとやつて来る。しかし、必ず来る。
といふやうな形で使つたと、仏語のウェブサイトに書かれてゐました。http://www.abnihilo.com/p/pe_b.htm ("PEDE POENA CLAUDO" といふ言葉のところです。)
尤も、最近の言葉で justice boiteuse と言ふと、公平を欠いた正義といふ意味になることが多いやうです。
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