ここでアランは哲学とは何を目指すものかを定義します。
だといふ訳です。従つて哲学は「倫理上の或いは道德上の敎理(*)を目指」すものであり、「各人の判断の上に、ただ賢者の忠告を助けとして築かれるもの」であると説明されます。
希望だとか野心だとか恐怖だとか悔恨だとかを整理整頓しようが爲の正しい値積り、何が善で何が悪かといふ値積り
のです。
哲學の全力は、死に對し、病に對し、夢に對し、欺瞞に對し、確固とした判斷を持つといふところに存する。
第1段落の最後に「かういふ哲學の知識ならば、誰でもよく知つてゐる。」といふ文がありますが、ここで「知識」と訳されてゐる語はnotionで、見方とか捉へ方と訳した方が分かり易いでせう。かうした哲学の捉へ方はお馴染みのものだ、といふことです。尤も、これがお馴染みなのはフランス人にとつてであり、日本人には、哲学は現実の役に立たない難しい小理屈の代名詞ではないでせうか。
「なんで人間はじめ他のものがこの世に存在してゐるのか?」「死んだらどうなるのか?」「宇宙の果てはどうなつてゐるのか?」といつた決して答の出ない問題に頭を悩ますのが哲学だ、と考へてをられる方も多いのではないかと思ひますが、アランの言ふ哲学は、もつと地面に足の着いた、良く生きる為の知恵です。上記のやうな問は、この序言でも示唆されてをり、後の章で詳しく述べられるやうに、言葉によつて作られた偽の問題だとして、問題自体が否定されます。
第3段落には、哲学の目指す認識は、あくまで精神の見張番として役立つものであり、単なる好奇心を満足させるものではないとあります。なほ、小林訳で(全集第四巻263ページ最終行)
とありますが、原文は
實際の事物といふものが、常に精神の立派な見張番なのだ。
で、objet は事物ではなく目標と訳す方が正しいと思ひます。目指すのは、いつでも精神をきちんと見張ることだ、といふところでせう。
l’objet véritable est toujours une bonne police de l’esprit.
第3段落の後ろの方に出てくる「思索」と訳されてゐる言葉は、réflexion です。英語と同じで、反省でもあり、反射といふ意味にもなります。「凡ての認識から認識を企てる人間に結局帰着する」動きを réflexion と呼ぶとき、フランス人にはかうした言葉の意味の広がりが思ひ浮かんだはずです。
小林訳では省略されてゐますが、原文には、この後に二つの段落があります。第4段落では、過去の哲学者達を思ひ起こせと説かれ、聖書にも出てくるエジプトでのヨセフなどが例示されます。第5段落では、シラーの「ワルトシュタイン」やプラトンを材料に学ぶべきことが述べられます。このあたりは、日本人に馴染みの薄いところなので、省略したのだと思ひます。(脚注 1)
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