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第8章 客体について

注釈へ

デモクリトスが、太陽や月は実際に我々が見るとほりのものである、大きさはそれらしく見えるとほりで、我々がさう見えると信じる距離に在る、と主張した時、彼は自らの教へがどこに導くかを良く知つてゐた。船で乗り出せば、冒険を避けられる保証は誰にもない。今日では、その証明を良く知らない者でも、太陽は我々から遠く離れてをり、月よりもずつと遠く、従つて月よりもずつと大きいのだと認めてゐる。見かけの大きさは、食の際に感じられるやうに、ほぼ同じなのだが。だから、我々が太陽と呼ぶ客体、真の太陽は、この目を晦ます球だと主張することは出来ない。真の太陽は、我々がそれを不用意に見つめる時の目の痛みだと主張するのと同じことになる。

そこで、この真の太陽をどうやつて決めるに至つたのかを調べなければならない。誰もそれを見たり思ひ描いたりできないのは、立方体だと分かつてはゐても立方体といふものを見ることができないのと同じだ。私はその印を見る、真の太陽の印をみるやうに。そして、真の太陽の印、その大きさ、その見かけの動きや真の動きについての印のなかで、棒の廻る影は、黒くした眼鏡を通して見た天体の円盤に、重要さで劣らない。従つて、真の太陽は、ある印によつても別の印によると同様に、あるときにはよりうまく、決められる。ここで、客体は他の諸物、突き詰めれば他の全ての物との関係で決められるのが分かる。単独で考へられた客体は全く正しくない。別の言ひ方をすれば、客体でさへない。これは、客体とは分けることの出来ない諸関係の体系にあるといふこと、あるいは、客体は考へられるのであり、感じられるのではないといふことだ。改めて、一番簡単なものの一つである立方体の例をよく考へれば、デモクリトスが押しのけようとして出来なかつた逆説がよく理解できるだらう。

世界を見えるとほりに、素直に描き表さねばならない。これは易しくない。といふのは、ひとは感じるとほりには見ないから。また、それが見えるとほりではないことは、誰でも知つてゐる。場所を変へて、この男を一巡りして見給へ。彼の姿は常に暗い影で、地面は常により明るい色でそれを取り囲むだらう。しかし君は、それは別のことで、問題はこれらや他の印から決めることにあるとよく知つてゐる。触覚が判断者なのだと主張したがる人達は、何も得るところがない。彼らは、この男は私の手のこの感じだ、その次には別の、さらには別の感じだとは言はないだらうから。我々は逆に、私の手の単純な動きによつて彼がそんなに変化したのではないと知つてゐる。そして、要するに、我々はこれらの見かけを体系に纏めて、これら千の姿が我々に同じ男について教へるといふところまで行かなければならない。全く同様に、私は月夜に踊る時、月が踊るのではないと決める。小さな羊飼ひでも知つてゐることだ。それも科学によつて。

昔の天文学者は、明けの星と宵の星とが二つの別の天体だと考へてゐた。金星は我々よりも太陽に近い惑星なので、他のもののやうに空を一周しないのだ。かうして、適当な関係を知らないために、彼らはこの見かけの二つの体系を、我々が今日やるやうに結び付けるに至らなかつた。この問題については、異なる天文学の体系を比べるのが役立つ。そこでは、人が複数の見かけの下に、どういふ方法でただ一つの客体を再発見するかが見える。客体自体の適当な動きや観察者の動きを考へ出すことで、だ。しかし、私が動き始めたのは自分の列車か別の方かを知るに至るのは、これと別の方法によるのではない。また、私は、毎年巣を作ると分かつてゐる地下倉庫の近くの空で一つの影を見ただけなのに、「ほら燕が帰つて来た」と思ふことがある。随分と大きな仮定で、一部は誤つてゐるのだらう。それは同じ燕ではないかも知れないので。それでも、悟性がその体系をどう組上げて、真の客体を決めるのかが、ここで全て見て取れる。

かうして、なぜ二つの眼で一つの物しか見えないのだらう、と問ふだけでは足らない。なぜ二つの手で一つの立方体にしか触れないのか、なぜ見えてゐる、聞こえる、嗅いでゐる、味はつてゐるのと同じ物に触れてゐるといふのか、と問ふべきだ。それはそれぞれ別物かもしれないし、見かけにこだはれば、随分違ふものなのだから。かうした点に気付いて貰へれば、考へるといふ不思議な力が、段々にはつきりして来る。大半の人々は、他の人達や自分自身に伝へるきちんとした話にだけこれを認めたがるのだが。魂は、最初は誰もが一人でそこにゐて、狂人は一生をそこで過ごす見かけの世界を元に、一つの共通の世界を考へるのだといふこと、それがもう見えてきた。


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