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第5章 大望について

注釈へ

年齢とともに愛の後には大望が、大望の後には吝嗇が来るとしばしば言はれる。年齢により愛がなぜ冷たくなるのか、年とともに人の気に入るための手段がどう変はるのかは、はつきりしてゐるだらう。そして、老人にあるのはどのやうな種類の力なのかも。年齢が熟すれば、愛はある種の大望へと変化する。自分についての確信があり、多くのものを軽蔑し、無関心な風で、どんなに警戒心の強い心も動かされる。かうして疲れた恋人は、この自分にやつて来る別の力を当然用ゐる。

しかし、さわぐ心は、力を望む気持よりも、挫かれた大望とでも呼ぶべき、従はうとする気持の中で強い。成り上がりは、自分がその道を通つてきたことを忘れられないのだ。野望を抱く者は、自分を作り上げるところが多く、感服までは自分に許さない。あるいは、それを隠す。しかし、読者が理解するだらう仕組みによつて、殆ど心を動かされない、あるいはそれを外に出さないといふことに努めてゐる人間は、しばしば空虚な落ち着きに至る。そのさわぐ心は、むしろ退屈といふものだ。王達の退屈は限りがない。そして全ての王の力は、権威の力により、それを振るふものを退屈させる。

挫かれた大望は退屈しない。その分だけ強く望み、待ち、企み、震へ、怒り、崇める。神の仕事は難しいものではない。それなりの威厳を持ち、大きなものでも小さなものでも、何か恩恵を待ち望ませれば良いのだ。神化するのは崇める者の方だ。気に入るための何かを見つけられないのではないかといつも恐れてゐるのだから。ゆとりと簡素、単なる礼儀によつても、大望の苦しみは和らぐが、その喜びもまた減じる。逆に大望に少しの野蛮を混ぜると、成功の酔ひ心地は増し、失敗はさらに苛酷なものとなる。請ひ求める者は自分自身を恐れ、その筋肉の大変な努力で自分を抑へつけ、あらかじめ自分を苦しめる。そこから候補者、役者の恐れが来る。

しかし役者に特有なのは、見せたいと望むところから来る。嘘つきの条件とは、自分の自然な動きを見張り妨げることであり、筋肉を縮める大きな努力を必要とするので、命の働きを妨げるまでになる。だから、即興の嘘つきは顔を赤らめる。巧まれた嘘の前の自分への恐れ、震へ、待つ間の熱つぽさもここから来る。それで神は得をする。請ひ望む者は常にこの苦労を、真の理由ではなく神の威厳によると考へるので。身体の動きはいつでも意味を持ち予言しないではゐない。全てのさわぐ心はそこから来る。大望を抱く者は、力に身を任せるやいなや、それを恐れるやうになり、そしてそれを妬むやうになる。かうして王は寵愛に価値を与へ、恐れは王に価値を与へる。

従つて、力ある者の媚びといふものが、引見の中にはある。多くの者がそこに囚はれる。最も賢明なのは、そこに行かないことだ。あるいは、それより増しな方法がないとすれば、横柄になることだ。しかし何も要求しないといふのは何と簡単なことだらう。他方、要求したものは、やがて欲しくなる。もし我々が何もしない術を心得てゐれば、我々のさわぐ心は遠くまで進めなかつただらう。わたしは、激しいものだと思つてゐた欲望が、動きをとらないといふことだけで、それについて考へてゐても、間もなく衰へるのを見た。

しかし何と多くの欲望が最初の動きから生まれることか。ある人が、自分がそれを支持したといふだけで、ある意見に固執するのを目撃するやうに。二人の友人が、気にもしてゐない問題についての激しい議論で、喧嘩一歩手前まで行くことがある。そこで彼等は決つて、何か隠された憎悪があると結論し、その原因を探す。全く無駄なことだ。働いてゐた原因は、まずい言ひ方、息苦しさ、引きつつた喉、そして疲れ以外にはない。説得しようといふ熱意は、大望の一部である。訴訟人の偏執もさうだ。

しかし、競争心について一言いはねばならない。これはまづ、人が欲しがつてゐるものを余計に欲しがらせる、さわぐ心の模倣により、また、彼が見せる嫌悪や怒りの模倣により、大望に拍車をかける。更に、人が狡猾だと思ふことで、あるいは繰り返される中傷によつて。そして、特に、喧嘩する不用意な友人達によつて。辱められた大望は、家族の中でしか大きくは育たない。そこでは誰もが主人を真似し、彼とともによまひ言をいふ。人は、利益は自然に求められ、それがその定義だと言ふ。しかし、少数の利益を除き、人が欲し、望み、追ひ求め始めるから、利益は利益なのだ。これは全てのさわぐ心に共通だ。しかしまた、全てのさわぐ心には大望がある。


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