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第2章 節制について

注釈へ

人は放縦について判断を誤る。一番目につく結果を恐れ過ぎて、その独自の詩情や力を掴み損なふのだ。古人は、伝へられた智恵によりもつと物が見えてゐたので、放縦の熱狂や大酒盛りの気持の高ぶりを、混乱を呼ぶ神の仕業だとして、儀式や秩序ある酔ひなどで静めてゐた。そして、これと同じ見方で、古への賢人達は我々以上に、全ての型の礼儀を重んじてゐた。我々はと言へば、自分の本当の動機や強さを忘れて、節制とは恐れから差し控へることに過ぎないと考へたがる。かうして我々は、個人を狙ひながら、それに達することができないのに対して、儀式を尊んだ古へは、より良い道を通つて魂に辿りついてゐた。

酒に酔ふのを、ただの動物的な狂気だと取るとすれば、大きな誤りだ。酔ひは、節度を越える一つの機会でしかない。むしろ、この言葉の持つ幾つかの意味が示すやうに、酔ひはいつも精神に係はるものだ。詩人はこれを良く見てゐた。シェークスピアの道化が瓶を持つて登場するのを、私は軽く取らない。最も完成された道化は英国人であること、同様に最も完成された儀式は英国流であることは、注目に値する。従つて、節度を越えるとは、息が詰まるほど締め付ける羞恥心に対する勝利のやうなものだらう。また、最も恐るべき放縦は、着物に対するものだといふことを見逃すことはできない。さて、感覚的な快楽は、この反抗の動きにより倍加されるのだ。同様に、飲む快楽は、精神の助けを必要としてゐる。フィガロがわづかな言葉で言ひ表したことだ。もう一度人間を定義し、自分で思ふ以上にうまくやつた。

酒を持たぬ道化達もゐる。あれほど軽蔑される者はゐない。しかしまた、突飛な行ひがわづかでもあると耳に障り、顔を赤らめさせるやうな場合がある、下品な行ひのやうに。そこから、愛による気違ひ沙汰と戯れ者の破廉恥との繋がりが見える。歌でも、朗読でも、書きぶりでも節度を越えることはある。普段の慎みに反する痙攣的な動きが、恥を忘れさせる場合には、饒舌と呼ぶべきだ。しかし賢明なコンシュエロはうまく振る舞つた。ジョルジュ・サンドがこの人物を描いて、最も偉大な作家達に肩を並べたことには同意せねばならない。私は破廉恥な芸術家を何人か知つてゐるし、羞恥心で息が詰まつた芸術家も知つてゐる。力が無いのではないが、常に優雅さが欠けてゐる。この危険な仕事で、この上ない均衡といふものを、私は殆ど見たことがない。必要なのは抵抗でも争ひでもなく、むしろ解放だ。節度による方が羞恥心によるよりもうまく動きを律することができる。神々はさうして歩んでゐた。

従つて、酒を飲まなければ節度が守れ、あらゆる種類の濫用を避ければ身を慎めるのだと考へるのは、間違つてゐるだらう。そこには客体についての誤りが見える。快楽をよぶ客体は、それほど恐るべきものではない。自然に対して譲るのも良いことだ、といふ半真理が自分の場所をみつけるのは此処だ。しかし、動物には、そして子供にも、いとも容易いことが我々には、さうではないのだ。どんなにわづかな快楽でも、確実に我々を動揺させる。原初の過ちが自然の喜びを台無しにするといふ神話は、いかにも深い。そして本当の過ちは、常に、全く信じないといふことだ。悪事を仕上げるのは鎖を解かれた精神だが、始めるのは鎖につながれた精神だ。自由な精神が偶然に酔ふことはあり得るが、それを悔いて更に酔はざるを得ないといふことにはならない。他の節制に反する過ちは、快楽を分かつことで他の人達に、また醜聞により全ての人に害を及ぼし得るので、より恐るべきものだといふことは認める。通常の生活の規則や普通の慣習を受け入れるのが賢明なのはそのためで、精神に他の仕事があれば、受け入れることで過ちの機会も減る。しかし、精神がこの拘束を感じてはならない。さうするとそれを断たうとする誘惑があるからだ。快楽は冒涜により心を引く。この習はしを崇めるよりも、全く判断しない方が良いだらう。眠りのやうに美しい、別種の純粋さといふものがあるといふことだ。


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