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第2章 礼儀について

注釈へ

野蛮人が格式ばつた礼儀の形式に従ふといふので驚く人が時々ゐる。しかし、それは、彼らが凶暴な衝動を持たぬといふことを証明するものではない、逆だ。武装した平和は、表現するといふこの危険な力を細かいところまで制御しないと、決して保つことが出来ない。意味を持たぬことさへも、既に一つの脅威であり、侮辱を意味するのだから。野蛮人のものに似た外交官の礼儀は、そこから来る。ここで礼儀の源を見出し、私はかう注意したい。それは考へや意図を隠すことよりも、仕草や表情の動きを制御することにある、と。これらは人がさう望まなくても、何かさへ分からない意味を持つのだ。また、自分が信じられずに筋肉の自然な動きと戦へば、礼儀上は非常に良くないことに注意せねばならない。この戦ひが、ぎこちなさや顔の赤さのやうな印となつて、誰もがそこに隠し事があると分かり、形に現れた侮辱に劣らず、心をさわがせるからだ。従つて礼儀とは表現の体操のやうなもので、望むところのものしか相手に理解させないことにつながる。礼儀は、言葉のやうに、ある社会と別の社会では異なる。しかし、落ち着きと節度は全ての国で礼儀にかなふ。

礼儀は善意ではないことに注意すべきだ。礼儀を守りながら不愉快で意地悪になることができる。意識的に礼を失するといふことは不可能でさへある。礼を失するとは、実際、さう望まないのに意地悪になることだ。また、これはより稀だが、望む以上の友情を示すことだ。この自らを失はぬことに加へ、意図せずに人を傷つけたり困らせたりしないために知つておくべきことの全体を、人は処世術 savoir-vivre と力強く呼ぶ。ただ、人が必要なことを全て知つてゐるといふことは稀なので、何も新しいことは言はないやうになる。言葉はそこで明確さ、純粋さを得るが、誰もが同じ事を繰り返すので退屈もやつて来る。強烈な野心や愛でさわぐ心は、この退屈を忍ばせるが、合図に対する注意を倍加させ、微妙な調子や言葉の順序に価値を与へる言ひ方や分からせ方を生む。音楽はこれと同じ性質を示してをり、規則的な慣例の節回しで最初に安心を与へ、また同時に驚かせるのだが、極まりは決して破らないことで楽しませるのだ。詩はこの点で音楽に似てゐる。しかしどちらもその源は儀式にあり、儀式の目的は社交の楽しみに秩序を与へることよりも広い。演劇についても同じ事が言へる。よく見れば、それは儀式そのものなのだが、いつでも雅びな語らひの決まりに多少とも譲歩してゐる。さわぐ心の動きは、その場合、リズムによる穏やかな変化によりそれと知られる。身体が着物の襞で知られるやうに。そして、それと知ることでさわぐ心は育つので、礼儀正しい社交の楽しみは激情をさわぐ心へと変へることが分かる。しかしこの治療は病よりも悪い。恥づかしがるのはサロンの病で、特に若いときにさうだが、他人の自分に対する力を許される以上に評価することにつながることが多い。

決闘といふ慣習は、礼儀と儀式の真ん中にある。これは、多分、その効果を整へればさわぐ心に対して多くを為したと考へる慣習の知恵の最もよい例だらう。その考へには正しいものがある。男らしい怒りは、さわぐ心の内で最も恐るべきものだが、一人でゐると、時間を置くと、そして注意を引き止める戦ひの決めごとにより、必ず冷める。争ひを、騒ぎの中で決して熱くなることのない善意の弁護士の手に委ねることは非常に賢明なことだ、といふことを勘定に入れないとしても。和解でも、闘ひでも、公にすることは、少なくとも悪い噂や曲げられた話を止めるには役立つ。戦争は、決闘以上の理由を持つことは決してないものだが、証人や交渉者の役割がもつと良く理解されてゐたら、それほど恐れなくとも済んだだらう。しかしここでは証人も勇気のあるところを見せようとする。この国々はあれほど親しくて近づいてゐるのだから戦ひ合ふやうになることはないだらうと考へるところから、問題が出てくる。二人の人の間がどんなに密接で親しくても、何らかの礼儀の制約がないと平和を保つことが殆どできないことを見れば、これは大した理由だ。しかし、礼儀は必要なのだ。思ふことを全て言ふと、人は思ふ以上のことを言ふのだから。


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