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ユング自伝


みすず書房から出された『ユング自伝』の邦訳は二冊に分かれてゐて、1972年6月に1が、1973年5月に2が発行されました。小林秀雄文庫に残されてゐるのは、1の第9刷で1979年7月5日の日付があります。後述するやうに、小林秀雄は2も読んでゐたと思はれるのですが、何故か小林秀雄文庫には収められてゐません。

小林秀雄の絶筆

周知のやうに、小林秀雄の絶筆は「正宗白鳥の作について(七)」です。これが最初に掲載された『文學界』の昭和五十八年五月号によれば、原稿は没後に書斎で発見されました。1982(昭和五十七)年3月末に病気治療のために入院する直前まで執筆し続けてゐた、といふことです。その最後の部分は次のやうになつてゐます。

自ら強調し追及して來た内的經驗の純粹性といふものに、苦しむ事になる、追ひ詰められる事になるのが、だんだんと明らかになつて來る。そんな書簡を讀まされる始末となつては、ヤッフェも亦追ひ詰められて、ユングの「自傳」の解説を、「心の現實に常にまつはる説明し難い要素は謎や神秘のまゝにとゞめ置くのが賢明
(『文學界』昭和五十八年五月号、131頁)

この文章を掲げたページには原稿の写真も載せられてをり、「写真版でも見られる通り、十七枚目末尾で終わっている。」といふ編集部の注があります。途切れてゐる引用文は、『ユング自伝』の巻頭に置かれてゐる編者アニエラ・ヤッフェの「はしがき」からのものです*1。絶筆で引用されてゐる本なのですから、小林秀雄の愛読者にとつて関心を持たずにはゐられない本だと言へるでせう。

それにしても、正宗白鳥に関する文章の中で、何故、ユングに言及するやうになつたのでせうか。『文學界』昭和五十八年五月号には、郡司勝義氏の「白鳥論覚え書」といふ文章が、「「正宗白鳥の作について」付記」として載せられてゐます。そこに書かれてゐることに基づいて正宗白鳥からユングへの道筋を簡単に纏めると、次のやうになるでせう。「白鳥について話を始めれば、内村鑑三の上に及ぶのは、当然のこと」であり、「内村鑑三について書きながら、赴くところは、おのづと(内村を取り上げてゐる)河上徹太郎氏の「日本のアウトサイダー」であった。」「河上氏の内村鑑三の話から、同氏の愛読してゐたリットン・ストレイチーの上に及ぶこととなつた。ストレイチーの弟がフロイト派の心理学者であることに気がつかれたのは、この年(1981年)の初めであった。それをもとに、道はおのづとフロイトへ向ふのである。」フロイトまで行けば、「フロイトの「夢判斷」の最初の愛讀者」ユングに話が及ぶのは自然でせう。郡司氏によれば、「「正宗白鳥の作について」は、あと二回、ユングとフロイトについて書き、そして正宗白鳥に戻つて、三回ほど書いて完結されるといふのが、七回以降の予定であった。この目論見は、最後まで変らなかつた。」といふことです。なほ、「」で示した引用文にある( )の中は、私が補足したものです。

郡司氏の文章では、入院する直前の3月21日に次のやうなやり取りが行はれたことも紹介されてゐます。

「君のところの原稿も、のびのびになつて、まことに申訳ない。書きたいことはフロイトとユングの話でね、例の爆音が二度あつた話があるね。」 —— 邦訳の『ユング自伝』上巻の二二四頁 —— 「あそこを書きたいんだよ。一度、二人がゐたすぐ隣の本箱で、大きな爆音がした。するとユングは、もう一度、あんな大きな音がすると予言したらう。さう言ふが早いか、すぐまた二度目の爆音が起つたといふね。フロイトは呆気にとられて、ユングを見つめるばかりだつたが、これがユングへの不信となつて、二人の訣別となつたね。あれをめぐつて、フロイトはユングに手紙を書く。その手紙が、あの本の巻末に附録となつて載せられてゐる。それを読んでね、ははあ、ユングはフロイトに鼻の先でからかはれてゐるなあ、と思つたよ。しかし、あれは抜萃だから、全文を読みたいと思つて、高橋(義孝)君に翻訳を頼んだら、快くやつてくれてありがたかつたよ。フロイトのドイツ語の原文は、さぞ面白いと思ふんだ。あの文体を論じてみるのは、きつと価値があると思ふんだ。僕は、ドイツ語が読めないのが、今度ほど残念だつたことはない。」
「ぢや、お化けの話を書くんですか。あそこは、超能力といふか超心理学的現象の一幕でせう?」
「さうだよ、ここで、お化けの話を一つ書いておかうと考へてゐるんだ。」と軽くかはされた。
「さういふ世界は、書ききれるものですか。」
「この頃、どうも頭がにごつてきてね、すつきりと行かないんだ。にぶくなつたんだね。止むを得ないんだらうな。……だが、きつと書ききれると思ふんだ。」
(『文學界』昭和五十八年五月号、139頁)

ここで話題になつてゐるフロイトとユングが聞いた爆音の話は、未完となつた「正宗白鳥の作について」(七)に実際に出て来ます。また『ユング自伝』についても、次のやうに言及してゐます。

さて、ユングの事に觸れて、なぜ話がこのやうな次第になつたかについて、一言して置きたい。實は、最近になつて、ユングの「自傳」なるものが邦譯紹介されて、それを私は讀んだからである。「自傳」は、周圍からの要請により、極く晩年になつてから書かれたもので、ユングの死後、その秘書ヤッフェの手によつて編纂され、世に出たものださうだが、その中に、「ジグムント・フロイト」と題する囘想文があつた。ユングは、この文章で、フロイトが要求する「斷乎たる轉身」*2に、進んで應ずるとはどういふ事であるかを、まことに率直明瞭に語つてゐて、其處には、私をひどく驚かすものがあつたからである。
(『文學界』昭和五十八年五月号、128頁)

『ユング自伝1』の目次は以下のとほりです。

このうち、小林秀雄が傍線などの印を付けてゐるのは、ヤッフェによる「はしがき」以外では、殆ど全てが「V ジグムント・フロイト」です。その他の部分では、「VI 無意識との対決」に一か所と「訳者あとがき」に一か所だけで、しかも前者の印は「私がフロイトと別れたとき、私は未知のものの中にとび込んでゆきつつあると解っていた。」といふフロイトについての文に付けられてゐるので、本文で印が付けられてゐるのは全てフロイトに関する部分になります。自身が述べてゐるとほり、小林秀雄が『ユング自伝』で興味を持つたのは、何よりフロイトとの関係についての記述だつたのでせう。

『ユング自伝2』「死後の生命」

さて、上に引いた郡司氏の「白鳥論覚え書」には、小林秀雄が『ユング自伝』の巻末に付されたフロイトからユングへの手紙を読んだことが書いてあります。この手紙が付されてゐるのは『ユング自伝2』の巻末ですので、小林秀雄が『ユング自伝』の上巻だけでなく下巻にも目を通したことは間違ひないでせう。この下巻を小林秀雄はどのやうに読んだのか。最初の述べたやうに、小林秀雄文庫には、『ユング自伝1』しか残されてゐないので、それを窺ひ知る術はないのですが、『ユング自伝2』には「死後の生命」といふ章があり、これをどのやうに読んだのか大いに興味が掻き立てられます。

小林秀雄の死生観を語る際に先づ思ひ出されるのが、ベルクソン論の『感想』の冒頭に出て来る蛍になつたおつかさんの逸話です。まさに「お化けの話」から始まるベルクソン論は、未完のままで終はるのですが、目指してゐたのは、水道橋の駅から転落して奇蹟的に助かつた(おつかさんが助けて呉れた)あとに熟読したといふベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』が扱つてゐる問題だつたのではないか。そんな仮説を別の場所に書いたことがありますが、あの本の中にも死後の生命を扱つた一節*3が含まれてゐます。この節でベルクソンは、『物質と記憶』で詳しく述べた「肉体に対する魂の独立性らしいものを観察」できることと、『二源泉』で扱つた「神秘的直観」といふ神秘家の経験を取り上げて、次のやうに述べてゐます。

この二つの経験は出会うだろうか。その活動の大部分がすでにこの現世のときから肉体から独立しているという事実によって、すべての魂に保証されているように見える来世は、特権的な若干の魂がすでにこの現世のときから入りこむに至る来世と、同一のものだろうか。この点について我々に教えるのは、以上二つの経験の拡張と深化だけだろう —— この問題は未解決のまま残るに違いない。しかし、本質的な諸点に関しては、確実性に変じ得る見込みのある一つの成果を獲得したということや、その他の点、つまり、魂とその運命の認識については、終ることのない進歩の可能性を獲得したことは、相当な成果である。
(岩波文庫版『道徳と宗教の二源泉』323頁)

死後の生命についてのユングの語るところは、ベルクソンとは違ひ、全てが自らの記憶やイメージ、掻き立てられた思ひを元にしたものだとユング自身がこの章の冒頭で断つてゐます。自分の語るところは「神話」であり、自分は死後の生命を望むわけではなく、むしろそんな考へを持つのは遠慮したいのだが、自分の望むと望まざるとに関らず、かうしたことに関する考へが自分の中を動き回る。それが正しいか誤りかは分からないが、そこにあることは確かだ。こんな調子でユングの話は始まります。また、死後の生命に関する神話やお話が何を意味するのか、その背後にはどのやうな現実があるのか、といふことは私達には分からない、私達の理解を超えたことに関して確信を得ることは不可能なのだといふことを心に留めるべきだ、とも言つてゐます。

その上で、永生の問題は私達にとつて切迫した問題であり、これについて何等かの意見を持つ努力をせねばならず、そのためには無意識から送られてくるヒントが助けになるといふのが自分の仮説だと言つてゐます。そして、自ら見た夢だけでなく、他人の夢も参考にしながら、死者達が持ち得る知識はこの世のどこかで得られた意識の段階を超えることができず、そのために地上での生活が大きな意味を持ち、死ぬ時点であの世にもたらすものが重要になるのだらう、といつた推定を述べてゐます。その他にも、いろいろと興味深い話が出て来るのですが、要約は不可能なので、ご自分で読んで頂きたいと思ひます。

小林秀雄は自身の死生観については書いてゐないので、その作品から推察する他はありません。『本居宣長』を読み返してみませう。小林秀雄はこの本の中で、「人死て後にはいかになる物ぞといふ」全ての人の心にかかる問題について『鈴屋問答録』から長い引用をしてゐます。その一部だけを、下に掲げます。

天下の人みな此儒佛等の説を聞馴て、思ひ/\に信じ居候處へ、神道の安心はたゞ、善惡共によみの國へゆくとのみ申てその然るべき道理を申さでは、千人萬人承引する者なく候、然れ共其道理はいかなる道理と申事は、實は人のはかり知べき事にあらず、儒佛等の説は、面白くは候へ共、實には面白きやうに此方より作りて當て候物也、御國にて上古、かゝる儒佛等の如き説をいまだきかぬ以前には、さやうのこざかしき心なき故に、たゞ死ぬればよみの國へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく、これを疑ふ人も候はず、理窟を考る人も候はざりし也、さて其よみの國は、きたなくあしき所に候へ共、死ぬれば必ゆかねばならぬ事に候故に、此世に死ぬるほどかなしき事は候はぬ也、然るに儒や佛は、さばかり至てかなしき事を、かなしむまじき事のやうに、いろ/\と理窟を申すは、眞實の道にあらざる事、明らけし
(第五次全集、第十四巻、507-508頁)

そして、次のやうに解説を加へてゐます。

世をわたらふ上での安心といふ問題は、「生死の安心」に極まる、と宣長は見てゐる。他の事では兎もあれ、「生死の安心」だけは、納得づくで、手に入れたい、これが、千人萬人の思ひである。「人情まことに然るべき事」と言へるなら、神道にあつては、そのやうな人情など、全く無視されてゐるのは決定的な事ではないか。宣長の言ひ方に從へば、もし神道の安心を言ふなら、安心なきが安心、とでも言ふべき逆説が現れるのは、必至なのだ。更に、彼の意を汲めば、これから眼を逸らす理由が、どこにあるか、と問ふ。これに直面して、これに堪へるのが、神道の内部に踏み込むといふ事に他ならない。
(第五次全集、第十四巻、508-509頁)
繰返して言はう。本當に、死が到來すれば、萬事は休する。從つて、われわれに持てるのは、死の豫感だけだと言へよう。しかし、これは、どうあつても到來するのである。己れの死を見る者はゐないが、日常、他人の死を、己れの眼で確めてゐない人はないのであり、死の豫感は、其處に、しつかりと根を下してゐるからである。死は、私達の世界に、その痕跡しか殘さない。殘すや否や、別の世界に去るのだが、その痕跡たる獨特な性質には、誰の眼にも、見紛ひやうのないものがある。生きた肉體が屍體となる、この決定的な外物の變化は、これを眺める者の心に、この人は死んだのだといふ言葉を、呼び覺まさずにはゐない。死といふ事件は、何時の間にか、この言葉が聞える場所で、言葉とともに起つてゐるものだ。この内部の感覺は、望むだけ強くなる。愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはつきり言へるほど、直かな鋭い感じに襲はれるだらう。この場合、この人を領してゐる死の觀念は、明らかに、他人の死を確かめる事によつて完成したと言へよう。そして、彼は、どう知りやうもない物、宣長の言ふ、「可畏き物」に、面と向つて立つ事になる。
(第五次全集、第十四巻、513頁)
死者は去るのではない。還つて來ないのだ。と言ふのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出來ない、といふ意味だ。それは、死といふ言葉と一緒に生れて來たと言つてもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。宣長にしてみれば、さういふ意味での死しか、古學の上で、考へられはしなかつた。死を虚無とする考へなど、勿論、古學の上では意味をなさない。死といふ物の正體を言ふなら、これに出會ふ場所は、その悲しみの中にしかないのだし、悲しみに忠實でありさへすれば、この出會ひを妨げるやうな物は、何もない。世間には識者で通つてゐる人達が巧みに説くところに、深い疑ひを持つてゐた彼には、學者の道は、凡人が、生きて行く上で體得し、信仰してゐるところを掘り下げ、これを明らめるにあると、ごく自然に考へられてゐたのである。
(第五次全集、第十四巻、519-520頁)

死が私達に見せる姿から眼を逸らさず、どう知りやうもない物には「安心なきが安心」といふ姿勢で臨むといふ宣長の考へに、小林秀雄は賛意を示してゐるやうに見えます。

ユングと小林秀雄

ユングの名前が小林秀雄の作品に最初に登場するのは、1957年6月に雑誌に発表された「近代繪畫(36)ピカソ7」です。郡司氏の「白鳥論覚え書」には、このピカソ論が「昭和三十年代の初め、出たばかりの『ユング選集』の熟読に発してゐる」と書かれてゐます。小林秀雄文庫には、この「選集」だと思はれる『ユング著作集』全5巻が残されてゐて、巻により初版のものから3版のものまでありますが、全て昭和32年3月15日の日付がついてゐます。この日に『ユング著作集1 人間のタイプ』の初版が出て全冊が揃つたのを期に入手したものだと思はれます。どの巻にも多くの印が付けられてゐて、熱心に読んだことが窺へます。小林秀雄の全集にユングの名前が出て来るのは、この他に、第十二巻に収められた「辨名」と第十三巻のある岡潔との対談「人間の建設」、そして「正宗白鳥の作について」だけで、登場回数としては多いとは言へません。ただ、「辨名」では、荻生徂徠の作について語るといふ本筋を外れて、ユングについての思ひを述べてゐます。

人間に關する科學は、科學としては大變若く、又、その故に、自身の若さに氣付くのも難しいといふ状態にある。この間、C・G・ユングが亡くなつた事が、新聞に小さく載つてゐた。私は、ユングの一愛讀者として、深い哀悼の情を覺えた。このやうな人に死なれては、再びこのやうな人物が心理學界に現れるといふ事は容易な事ではあるまい、と痛感した。私のやうな極く普通の愛讀者には、彼の專門的學説に通じてゐるなどととても言へないが、彼の學説に通じてゐる、わが國の心理學界*4に、哀悼の念が見付かるかどうか、これは甚だ疑はしい事だ、とひそかに思つた。ユングの仕事は、人間の心の深さと心理學といふ學問の若さ、淺さとに關する痛切な體驗の上に立つてゐる。この體驗の味ひは、彼の著作の到る處に顔をだしてゐて、その分析は、賢者のやうな、詩人のやうな一種言ひ難いニュアンスを帶びてゐる。さういふこの心理學者の顔は、根據のない事ではない。それは、心理學は、もう一つぺん初めから心理といふ對象を摑へ直さなければならぬといふ彼の考へに基いてゐる。
  無論、この道は、フロイトによつて開かれたのだが、ユングは、フロイトが未だ拘泥してゐた科學者の自負を、きつぱり捨ててみせてゐる。もし人の心が、内省によつてしか近付けない、何物かであり、經驗的悟性を拒絶した存在で在る事を、徹底的に承認し直すならば、心理學者は、所謂科学的方法といふ因習に氣付くだらう。さうなれば、心理學が哲學と切つても切れぬ縁がある事を、容認するのに何んの氣兼ねもない筈である。いや、兩者が協力しなければ、事は決して運ばない。さう、彼は考へてゐる。これは心理學説ではない。學説を提げて、人生に臨む態度である。この態度なり、決心なりは、例へば、團地生活者の心理統計をとつて、現實に卽した學問をしてゐる積りの心理學者達には、無縁なものだらう。ユングが死んだ事は、彼の學説ももう古くなつた事しか意味しまい。私が、ひそかに疑つたのは、その事だ。
(第五次全集、第十二巻、274-275頁)

ユングに対する強い共感が感じられる文章です。久しぶりにそんなユングの考へに『自伝』を通して触れて*5、小林秀雄は何を思つたのか、原稿が中断されてゐる以上、それは想像する外はありません。『ユング自伝1』のヤッフェの「はしがき」には、数え方にも依りますが14箇所に傍線などの印が付けられてゐます。その多くは原稿に反映されてゐますが、原稿には使はれなかつた部分でも、興味深い文章もあります。「私は、自己欺瞞やまっかなうそに充ちている自伝作者をあまりにも多く知りすぎているし、自分を描くことの不可能なことをあまりによく知りすぎています。」あるいは、「(しかし、私にとって重要であり、はるかかなたの思い出のように私に現れる関係については、私は話すことができない。というのは、)*6それらは私の最も内的な生命に関するのみならず、また他の人のそれとも関係しているからである。永久に閉ざされた扉を、公衆の目の前に荒々しく開けるのは、私のすることではない。」といふユングからのヤッフェへの手紙の一部などです。その他に、次の部分にも傍線などが付されてゐます。

(彼は)、精神的な病いの治療において、患者の宗教的態度が決定的な役割を担っていることをよく知っていた。このような態度は、心が自然に宗教的内容を伴うイメージを産み出すことや、心は「本来、宗教的」であるという彼の発見と一致した。また、多くの神経症が、心のこの基本的な特性の無視、とくに人生後半におけるそれに由来していることが、彼には明らかになってきた。
本書はユングの広大な著作の中で、彼が神について語り、彼の個人的な神の体験をのべている唯一の場所である。
前者の場合は、個人として、その考えが情熱に満ち、力強い感情と、直観と、長い特別に豊かな人生経験とによって影響されている一個の人間としての発言であり、後者の場合は、彼は科学者として、証拠によって示され支持されることにのみ自分自身を限定している学者としての発言である。科学者としては、彼は経験論者である。ユングは本書の中で、かれの宗教經驗について語るとき、読者が喜んで彼の考え方の中にはいりこんでくるものと仮定している。彼の主観的な言葉は、同様の経験をしたもの —— いいかえるならば、その心の中で神のイメージが同じ、あるいはよく似た様相を示すもの —— にのみ受けいれられるであろう。

上記の部分は、文章の上の余白に横線が引かれてをり、加へて「科学者としては、彼は経験論者である。」には傍線が引かれてゐます。

小林秀雄が読んだ『ユング選集』には「ヨブへの答え」やsynchronicity(共時性)についての論文は含まれてゐません。これらの本を読んだら、キリスト教やこの世の不思議に関する小林秀雄の考へも更に深みを増したのではないか、といふ気がします。それとも、本居宣長に倣つて「安心なきが安心」といふ態度でゐたでせうか。「心の現實に常にまつはる説明し難い要素は謎や神秘のまゝにとゞめ置くのが賢明」といふ絶筆は、さうした詮索を斥ける言葉とも、自らに言ひ聞かせる言葉とも見えてきます。


《脚注》

  1. 引用文を含む段落の全体は次のやうになつてゐます。    (本文に戻る)
    出版社の要請によって、私が本書の終り〔訳書ではⅡ巻〕に付した簡単な語彙は、ユングの仕事や用語に親しくない読者のために役立てば幸いである。いくつかの定義を、私はWörterbuch der Psychologie und ihrer Grenzgebiete(心理学とその近接領域の辞典)から、編集者クルト・フォン・スリー博士の親切な許可を得て、引用した。どこでも可能な時は、ユング心理学の概念を、ユングの著作からの引用によって説明し、前述の辞典の定義を同様の方法で補った。しかしながら、これらの引用は、示唆的なヒント以上のものではないと思わねばならない。ユングは彼の概念を、常に新しく異なった方法で定義してきた。というのは、究極的な定義は不可能と、彼は感じていたからである。心の現実に常にまつわる説明し難い要素は、謎や神秘のままでとどめおく方が賢明であると、彼は考えていた。

  2. ここで「フロイトが要求する「斷乎たる轉身」」といふのが何を指すのかは、上に引いた文章の直前で、小林秀雄が再確認してゐます。    (本文に戻る)
    フロイトは、自ら精密に解釋を試みた最初の夢(一八九五年)から、先づ書き初めるに際し、讀者に向つて次のやうに訴へた。それは既に記したところだが、此處で、是非それを思ひ出してほしいと思ふので、再び引きたい——「讀者はどうぞ私の諸關心を、讀者自身のものとされて、私と一緒になつて私の生活の細々した事の中に分け入つて戴きたい。何故なら、夢の隱れた意味を知らうとする興味は、斷乎としてさういふ轉身を要求するものだからである」と。
    (『文學界』昭和五十八年五月号、128頁)

  3. 『道徳と宗教の二源泉』第三章の末尾。平山高次訳の岩波文庫版では321頁からで、survieといふフランス語は「永生」と訳されてゐます。    (本文に戻る)
  4. 日本人として初めてユング派分析家の資格を得た河合隼雄氏がユング研究所にゐたのは1962年から1965年なので、この文章が書かれた1961年の時点で「彼の學説に通じてゐる、わが國の心理學界」といふのは、小林秀雄の買ひ被りだといふ気がします。    (本文に戻る)
  5. 郡司氏の「白鳥論覚え書」には、「九月初めに、雑誌「海」の十月号に掲載されたユングについての対話には、先生はかなり触発された。ちやうどフロイトとユングについて考へてゐた真っ最中だつた。先生の論旨は、このやうな根源的なところに立至つた問題である。」と書かれてゐます。この「海」1981年10月号のユングについての対談といふのは、河合隼雄氏と遠藤周作氏とのもので、「ユングにおける「バランス」の考察」と題されてゐます。この二人は1984年12月の『歴史と社会」5号でも対談してゐて、そこに小林秀雄の話が出て来るので、その部分を載せておきます。
    遠藤——全く余談になりますけど、二年くらい前に『海』で対談させていただきましたね。
    河合——はい。
    遠藤——あれを小林秀雄氏が読んで、非常に興味を持って、彼はユングをそれから読み始めたそうです。
    河合——そうですか。それは知りませんでした。
    遠藤——そして、最後の「正宗白鳥の作について」の中で……。
    河合——あれ、感激しましたね。
    遠藤——ユングが最後のところにでてくるんですがね。それまで小林さんは正宗白鳥についてほとんど語ってないんですよ。正宗白鳥が死ぬとき、アーメンっていったのはどこからきとるかを、フロイトやトルストイなどを土台にしてしゃべっているのですね。そして、バッハのフーガのように同じテーマを繰り返し、いろいろ触れながらついに無意識の問題にどんどん入っていくわけですね。その上、第七章でユングを出しはじめましてね、でも、そこで、亡くなられたんですがね。
    河合——書いておられるように、「白鳥は白鳥として死んだ」というのは、あれは名言ですね。
    (『河合隼雄 全対話 I』ユング心理学と日本人 118-119頁)
    「ユングをそれから読み始めた」といふのは、正確には「再び読み始めた」と言ふべきところでせうが。    (本文に戻る)
  6. 傍線などの印が付された部分として示した文章で、( )で囲つてあるのは、小林秀雄が印を付けてはゐないが、文章の意味を理解するのに必要だと思はれるので、私が付け加へた部分です。以下、同様です。    (本文に戻る)

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