『感想』をたどる(21~25)

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第二十一章

第二十一章からは、『物質と記憶』第二章に話が進みます。ベルクソンは、第二章の冒頭で、以下の三点の主張を示し、順に解説して行きます。

  1. 過去は、1)運動機構、2)独立した記憶、といふ異なる二つの形で保存される。
  2. 現に在る物の再認は、その物から生ずる場合は運動により、主体から発する場合は表象により、行はれる。
  3. 時間に沿つて並んだ記憶は、次第に、生まれつつある活動、あるいは、可能な活動へと移る。脳の損傷は、この活動を損ふが、記憶を損ふことはない。

小林秀雄がこの章で扱ふのは、最初の二点を論じた二つの節で、「記憶の二形式」、「運動と記憶」といふ題が付されてゐる部分です。

第二段落から第五段落では、学課の暗唱といふ例をとり、同じ記憶といふ言葉で指されるものには、表象としての記憶と、運動機構としての記憶があることが述べられます。記憶といふ一つの言葉が指すものの中に、実は、全く性質を異にする二つのものが含まれてゐるといふ指摘は、極めて説得的で、前回述べた、既存の概念や言葉に引き摺られて議論を進めるのではなく、現実の持つ独自の姿を見つめるべきだ、といふベルクソンの考へ方が、実際に適用された良い例だと言へるでせう。

ベルクソンがここで区別してゐる二つの記憶は、最近の心理学の用語で、「エピソード記憶」と「手続き記憶」と呼ばれてゐるものに当たると思はれます。

第六段落以降は、「これは見た事がある、といふ感じ」、即ち、再認の問題が扱はれます。ベルクソンは、ここでも運動傾向としての自動的な再認と、表象によつて行はれる努力が必要な再認の二つを区別してゐて、前者については、以下のやうに述べられてゐます。

感覺が訓練されるとは、感覺的印象とこれを利用しようとする運動との間に、結合が出來上つて行く事に他ならぬ。實際、日常生活で一番普通な物の再認とは、これを使用する方法を知るといふ事だ。私達はみな、再認を考へる以前に再認を行つてゐる。眼前の品物は、その品物が存在してゐるといふだけで、もう私達を何等かの動作に導く。品物を熟知してゐるとは、さういふ事だ。この場合、私達に、再認感を與へるには、運動傾向だけで十分なのである。

後者については、例へば、かう書かれてゐます。

對象の姿を確かめようとする努力は、逆に私の側からする。私の記憶心像、現存しないものの表象を、いかにして現在に關係附けようかとする努力からする。注意を集中する再認は、現存する運動機構によらず、現存しないものの表象によつて行はれる。

かうした二種類の再認があることについて、ベルクソンは、見てゐるものが何だか分からなくなる精神盲と呼ばれる病気や、言葉を見たり聞いたりしても意味が分からなくなる言語盲といふ病気の例を、その証左として挙げてゐます。

『物質と記憶』は、ベルクソンの著作の中でも難解なものとされてゐますが、この章の末尾に、小林秀雄が記してゐるやうに、議論は、いよいよ核心に触れてきます。

ベルグソンは、再認の事實を吟味し、こゝに至つて記憶の問題の中心につきる。現存と非現存との間には、中間的段階など考へられはしない。では、過去の表象の保存とは何を意味するのか。それは、現在の運動機構とどういふ關係にあるのか。即ち精神と物質との關係の問題である。當然、彼の研究の難解は、このりから始まる。

なほ、ちくま学芸文庫版の合田・松本両氏の訳では、「これは見た事がある、といふ感じ」の部分が、「「既視感」(déjà vu) の感情」と訳されてゐます(118頁)。「既視感」は、最近の用法では、初めて経験することなのに、細部まで、いつか経験したことがあるという気がして、場合によつては、次の展開も予想できると思はれるやうな経験を指すことが多く、フランス語の音で「デジャヴュ」などとも言はれてゐます。ベルクソンが、ここで述べてゐるのは、かうした「既視感」のことではなく、単に、「これは見た事がある、といふ感じ」です。

最近の意味での「デジャヴュ」については、ベルクソンは「誤つた再認」(fausse reconnaissance) といふ言葉を使つてをり、『精神とエネルギー』に収められた「現在の思ひ出と誤つた再認」といふ論文で、この現象を扱つてゐます。極めて興味深い内容の論文ですが、『感想』でも、第二十八章以降で取り上げられてゐますので、そこで触れます。


第二十二章

第二十二章では、前回ご紹介した『物質と記憶』第二章の冒頭で示される三つの主張の三番目「時間に沿つて並んだ記憶は、次第に、生まれつつある、あるいは、可能な活動へと移る。脳の損傷は、この活動を損ふが、記憶を損ふことはない」に話が進みます。この問題を、『物質と記憶』では、「記憶と運動」、「記憶の現実化」といふ二つの節で扱つてゐるのですが、この章では、前者が取り上げられます。

ベルクソンは、この節の始めに、ここで扱ふ問題の重要性を確認し、記憶の分析との関係を示す文章を置いてゐます。その最初の部分は、かうです。

我々はここで、論争の本質的な点に触れてゐる。再認が注意を伴ふものである場合、即ち、記憶のイマージュが現在の知覚と規則正しく結びつく場合に、知覚が機械的に記憶の出現を決定してゐるのだらうか、それとも、記憶が自発的に、知覚の前に出てくるのだらうか。
この問への答に、確定されるべき脳と記憶の関係が懸つてゐる。

ベルクソンは、実際に記憶の分析に入る前に、知覚と注意と記憶の間の一般的な関係に言及するのですが、小林秀雄は、この部分から、第二十二章を始めてゐて、ベルクソンが冒頭に置いた上記の文章に続く部分を、順序を変へて、第四段落に持つて来てゐます。話の流れを分かりやすくするための工夫でせう。それ以外の部分は、ほぼ、ベルクソンの論じる順序に沿つて話が進められてゐます。

さて、小林秀雄がこの章の前半に置いた部分では、注意とは何かが論じられます。その要点は、以下の部分だと言つて良いでせう。

精神と對象とは、注意の作用で、緊密に聯合してゐる。それは、精神に向ふ知覺心像と空間に投射される記憶心像とが、相前後して走つてゐる切れ目のない輪道だ。

「輪道」は、circuit の訳で、ものの周囲、円形の道、電気回路などを指します。

章の後半では、いよいよ、言語の聴覚的記憶の障碍を例に取り上げて、次の二つの仮説のどちらが正しいのかが確かめられます。

仮説其の一

もし或る刺戟の運動が、知覺中樞に至り、その運動が、他の皮質中樞にはり、其處に記憶が發生するといふのが事實なら、記憶は、嚴密な意味で、腦膸の一機能に過ぎない。

仮説其の二

腦膸に於いても、世界のあらゆる所に於いても、運動が運動以外のものを發生させる道理がないなら、知覺の運動は、身體に、或る態度を發生させるに止まる。

それぞれの仮説で、脳の損傷が記憶の障碍につながる仕組みが、異なります。

仮説其の一では、

腦膸の損傷によつて惹起される記憶の障碍は、記憶が腦膸の損傷局所に存し、局所とともに破壞される結果だらう。

仮説其の二では、

腦膸の損傷は、或る時は、身體が或る對象に向つて、心像を喚起するのに適當な態度を採る事を妨げる事もあらうし、又、或る時は、記憶と現実との連鎖を切斷し、言ひかへれば、記憶が現實化する最後の段階である行動の段階を破滅させ、記憶の實現を妨げる事もあらう。だが、いづれにしても、現在の運動或は未來の運動の準備が出來なくなるだけであつて、腦膸の損傷は、實際には、記憶を破壞する事はない。

ベルクソンは、第二の仮説を支持してゐるわけですが、その証明のために、言語の聴覚的記憶の障碍を取り上げて、「聽覺的再認には、先づ感覺運動の自動的過程があり、次に、記憶心像の能動的な、言はば、中心から離れる投射が行はれる事を確めようとする」のです。冒頭に述べたやうに、「感覺運動の自動的過程」と「能動的な投射」の二つの問題が、「記憶と運動」と「記憶の現実化」といふ二つの節で扱はれてをり、それぞれがこの章と次の二十三章で論じられてゐるのです。

第七段落以降の分析は、極めて説得的なものだと思はれます。例へば、以下のやうな部分。

耳を新しい言葉の諸要素に慣らすといふ事は、聞えた生のまゝの音をへる事でもなく、これに記憶を加へる事でもない。發聲筋肉の運動傾向を、聽覺的印象にして整調する事だ。つまり運動の隨伴を完成する事だ。
もし、生のまゝの聽覺は、事實、音響の連續に他ならず、又、正常人の状態にあつては、習慣の結果發生する樣々な感覺運動の諸連絡の役目は、聞えて來た音響の連續を分解するにある、といふ事に注意するなら、事實は、自ら明瞭になるだらう。意識のメカニスムの損傷は、この分解作用を妨げるから、對應する知覺に、はまり込まうとする記憶の突進を、はつきり禁止して了ふのである。故に、損傷の及ぶところは、「運動圖式」の上だけだと考へる事が出來る。

この他にも、興味深い指摘がたくさんありますので、是非、『感想』の本文に当たつて頂ければと思ひます。また、『物質と記憶』の該当部分も参照なされば、小林秀雄が濃縮してゐるベルクソンの周到な議論を、生で味はふことができるでせう。

言葉についての注釈を一つ。第五段落に、「腦皮質の確定した囘轉」といふ語がありますが、この「回転」は脳の一部を指す解剖学上の用語で、英語では gyrus、「回」とか「脳回」とも訳されます。脳のしわとしわの間の凸になつた部分を指します。


第二十三章

この章でも、「既に書いたが、注意を伴ふ再認作用は」で始まる第四段落を除き、ベルクソンの話の流れにそつて、議論が進められます。

この章で列挙されてゐる論点の多くは、今日でも有効性を失つてゐないと思ひます。さうした論拠によつてベルクソンが示さうとしてゐるのは、注意を伴ふ再認は、外部の刺激によつて機械的に生じるやうな受動的な働きではなく、主体的、能動的な働きだ、といふことです。第三段落では、かう言つてゐます。

相手の話を理解しようと、言葉に聞き入る時、私達は、決して、印象がその心像を求めるのを傍觀してはゐまい。私達は、進んで精神の或る態度を採つてゐる事を感ずるだらう。相手の話の内容の如何に應じ、特に語句の動きの變化に從ひ、變化する内的な運動傾向を感ずるだらう。言はば、相手の話し方にじて、こちらの知的作用の調子を整へようと構へる態度である。聞き手の側は、或る運動圖式をこしらへて、これによつて、相手の發音の抑揚に傍線を引き、相手の思想の曲線の曲り具合を辿り、こちらの思想を導かうとするのだ。

第四段落では、次のやうに表現されてゐます。

他人の計算を理解するとは、自分でそれを再びやつてみる事だ。同樣に、他人の話を理解するとは、耳に聞こえた音の連續を知的に再造する事だ。

「再造」といふのは、耳慣れない言葉ですが、reconstituer といふのが元の言葉で、「再構成」といふのが今の読者には分かり易いでせう。人は、自分をシミュレータとして使ふことによつて、他人の考へを理解してゐるのだ、といふ主張だと言ひ替へる事もできるでせう。

最近の研究で、ミラー・ニューロンと呼ばれる脳細胞が発見されました。最初は猿で見つかつたのですが、人間にも同様の細胞があると言はれてゐます。このニューロンは、自分が動作するときに活動するだけではなく、他人が同じ動作をするのを見てゐるときにも活動するといふ性質を持ち、他人の動作を理解するために使はれてゐると考へられてゐます。ベルクソンの主張(の一部)は、かうした最近の研究によつて裏付けられたとも言へるのではないでせうか。ミラー・ニューロンについては、例へば下記のサイトをご参照ください。

『脳科学辞典』「ミラー・ニューロン」


第二十四章

第二十四章からは、『物質と記憶』の第三章に話が進みます。最初の段落は、小林秀雄による解説です。

これまでのでも、既に明らかなやうに、ベルグソンの記憶の分析には、心理學的分析を超えて進まうとする一貫した努力が見られる。心理學が否定されるのではない。その成果の、徹底的な、言はば、精神的消化が行はれる。例へば、再認作用は、心理學者にとつては、知覺心像と記憶心像とが出會ふ場所であらうが、哲學者にとつては、現在と過去とが出會ふ場所であらう。しかし、ベルグソンに問題なのは、どちらの立場に立つかではない。二つの立場を取るに至る一つの同じ精神にある。同じ精神が見もするし、考へもする。觀察を超えて思索しようとする努力と、辯證の殻を破つて觀察に至らうとする努力とは切れ目のない輪道を描く。彼の記憶の分析が、歩一歩複雜なものになるのは、この輪道の意識による。そして、又、この意識は、心理學と哲學との間の關聯は、現實に存する、私達の現實經驗與件である、といふ確信に基く。

ベルクソンは、第一章の最後の節で、第二章以降の議論の進め方を提示してゐます。小林秀雄も、『感想』第二十章で、この部分に言及してゐました。「腦膸は行動の具であつて、表象の具ではない」といふ「心理學を越えて精神生理學に向ふ」議論と、「私達は、眞實、私達の外部に於いて、知覺のうちに身を置き、直截な直觀のうちに、對象現實性にふれてゐる」といふ「心理學を越えて形而上學に向ふ」議論が、それぞれ、第二章、第三章で展開されるのです。上に引用した部分は、これを念頭に置いて書かれたものでせう。

もう一つ、この中で、小林秀雄が努力といふ言葉を強調してゐることが目を引きます。ベルクソンにとつて、考へるといふことは、対象の現実の姿を捉へようとする、対象に即した、独自の努力であつた、と言ひたいのだと思はれます。

第二段落からは、第三章の最初の三節、「純粋記憶」、「現在とは何か」、「無意識について」でのベルクソンの議論を辿る形で文章が進みます。このあたりは、目を見張らせるやうな主張が次々と示され、非常に刺激的な文章となつてゐます。小林秀雄の文章では、次のやうな部分です。

だが、生活人の經驗は、現在と過去とは程度の差だとは、私達に告げてはゐない。現在は、生き生きと私達の興味を引き、私達を行動に誘ふが、過去は本質的に無力だ、と明言してゐる。
このやうに、私の現在が、本質上、感覺・運動的なものであるとは、私の現在は、私の身體についての意識に成立してゐる事を意味する。
更に、一般的に言へば、實在そのものに他ならぬこの生成の連續に於いて、私の知覺が、この流動體中に行ふ殆ど瞬間的な切斷によつて、現在の瞬間は成立する。この切斷面こそ、私達が物質界と呼ぶものに他ならない。
物的對象知覺する事を止めれば、それは存在しなくなると考へる如何なる理由もないやうに、知覺される途端に、過去は消滅して了ふと考へる理由は、何處にもない。

まさに形而上学的な議論で、雲を掴むやうな話だと思はれる方も多いかも知れませんが、私には、非常に魅力的な部分です。

この章の末尾に、「この書の初めで、意識的な外的知覺が分析された場合、一般に客觀性といふものに關するベルグソンの考へは既に明瞭に示されてゐる。」とあります。これは、ベルクソン自身の「この作業の一部は、この著作の第一章で、客観性一般を扱つたときに、為されてゐる。」といふ言葉を踏まへたもので、第一章の「物質の問題への移行」といふ節を指すものと思はれます。


第二十五章

第二十五章では、前章に続いて、『物質と記憶』第三章の「無意識について」、「過去と現在の関係」と題された二節の議論が紹介されてゐます。

最初の四つの段落は、私達にとつて、事物と記憶とが、何故全く異なる在り方をしてゐると感じられるのかの説明です。ここも大変に興味深い指摘に満ちてゐます。挙げ始めると切りがないので、敢へて、二個所だけ選んでみませう。

空間は、私達の近い未來の圖式を、一擧に、私達に提供してゐるものだ。この未來は、際限なく流れて行く筈のものだから、この未來を象徴する空間は、不動のまゝの姿で、際限なく擴がつてゐるといふ特徴を持つ。
よく觀察してみれば、記憶も亦同種の連鎖を成してゐるもので、私達が決心し、決定する時に、常に現れる私達の性格なるものは、まさに、私達の過去全體の現実的綜合である事を知る筈だ。

基本にあるは、周囲からの脅威を避け、獲物を捕へるといふ、実用のために発達した私達の知覚が、対象の見え方を制約してゐるといふ考へ方です。

第五段落以降は、有名な円錐の説明です。これまで論じられてきた私達の外に拡がる世界と、記憶との関係が、一つの図で示されるのです。

このあたりは、小林秀雄も、殆どベルクソンの文章を辿ることに終始してゐますので、私が付け加へることは何もありません。興味を持たれた方は、是非、ベルクソンの本文にも当たつて頂きたいと思ひます。

最後の段落に、かうあります。

私達の過去は、現在の行動の必要に制限されてゐるから、姿を隱してはゐるが、この必要に興味を失ふ状態に、私達があれば、忽ち意識の境界を越えて動き出すのである。

ベルクソンは、睡眠時に失はれたと信じてゐた記憶が甦つたり、窒息死しさうになつた人が自分の一生が目の前に展開されるのを見る、といつた例で、かうした記憶の保持を裏付けようとするのですが、最近、米国では、そのやうな特別な状態でなくても、自分の一生を詳細に思ひ出すことができる人達が注目されてゐるやうです。

英文ですが、ご関心のある方は、次のサイトをご参照ください。 Highly Superior Autobiographical Memory


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