『感想』をたどる(26~30)

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第二十六章

第二十六章では、前章に引き続き『物質と記憶』第三章の「過去と現在の関係」といふ節の途中から、同章の最後までが論じられてゐます。前半は、一般観念といふものの分析です。ベルクソンは、円錐で示された精神と身体との関係を、一般観念(抽象観念)は如何にして可能かといふ昔からの哲学の問題に応用してゐるのです。

一般にベルクソンの本では、『笑ひ』の中に出てくる「美とは何か」といふ議論のやうに、本の主題に関する議論の中に、哲学の様々な問題が織り込まれてゐます。うつかりすると読みすごして仕舞ひさうなものもありますが、実は、それぞれが大きな問題を論じてゐることも多いのです。

一般観念の問題について言へば、ベルクソンの議論の特徴は、「一般化する爲には、先づ、個々の物から共通な性質を抽象しなければならず、さういふ抽象が可能な爲には、一般化する方法を知つてゐなければならぬ」といつた言葉の上の議論に終始するのではなく、「私達の周圍の事物が、私達の生活の要求に應ずるその側面だけを、先づ見せてゐる」といふ生物の置かれた状況や、「實に多樣な知覺装置が、樣々な中樞の仲介で、すべて同一の運動装置に結ばれてゐる」といふ神経系統の構造などの、具体的な事実から一般観念の由来を説明しようとする点にあると言へるでせう。

第三段落には、次のやうが主張が紹介されてゐます。

類似が現れるのには、決して心理學的な性質の努力を待つまでもないことだ、物理學的法則に從ひ、客觀的に作用する類似といふ力を認めれば充分だ

最近の心理学で、盲視(blind sight)といふ現象が注目されてゐます。本人は見えないと言ふのですが、その見えない対象を単なる偶然以上の確率で識別できるといふ不思議な現象なのですが、ベルクソンの議論は、かうした事実を考へる際にも、いろいろと示唆を与へて呉れるやうに思はれます。盲視については、このサイトをご参照ください。

この章の後半では、「諸関連の連合」以下の六つの節での議論が要約されてゐます。ご関心のある方は、ベルクソンの文章とあはせてお読み頂ければと思ひます。


第二十七章

第二十七章では、「餘談にわたるが、數言を費したい。」として、フロイトが登場します。第二十六章まで続いてきた、ベルクソンの文章を丹念に辿る一連の章は、読んでゐても、少し疲れるところがあるのですが、この章では、著者も一息いれて、自身の考へを自由に語つてをり、文章が楽に流れてゐるやうに思はれます。

『本居宣長』では、宣長だけでなく、何人も人物が登場して、「思想劇」が展開されます。小林秀雄らしさが発揮されるのは、あちらの方だといふ気がするのですが、如何でせうか。

「問題は、哲學といふものの考へ方にあつた。」で始まる第四段落では、ベルクソンの「フランスの哲学」に拠つて仏独の哲学の特徴を比較してゐます。フランス哲学は、哲学用の専門語を発明する事を避けて、新しい観念の表現にも生活人の日常語の新しい使用法を心掛けて来たことと、優れた哲学者が優れた科学者であつたのは、極く当り前な事であつた、といふ二つの特性を持つといふのです。

前者の特性は、自ら哲学を生みだしてゐる国だからこそ持つてゐるもので、日本の様に輸入思想で間に合はせてゐる国では、日常語とは懸け離れた翻訳語を使はざるを得ないのかも知れません。

第五段落では、『思想と動くもの』の序論を引きながら、ベルクソンの方法について述べてゐます。

彼の目指したものは、綜合的な學ではなく、人間的な全體的な經驗であつた。知的なシステムではなく、知的な努力であつた。彼の仕事の方法が定義し難いのは、方法を頼むより先づこれを捨ててみたところから來てゐるとさへ言へよう。實在に近附かうとして、一切の人爲的な機械的な近附き方を拒絶したところで、彼は實在の前に、殆ど手ぶらで立つ。其處で、直觀も悟性も、無垢な力を取返すのであり、其處に、いつも立還つてゐなければ、どんな學も、自ら編んだシステムのうちに死ぬのである。

小林秀雄は、1961年に現代の思想について講演し、その録音が、テープやCDで発売されてゐますが、その中で、近代の思想で一番大切な事件は、『物質と記憶』と『夢判断』といふ二冊の本だと言つてゐます。どちらの本も、精神が単なる脳の並行現象ではないといふことを示した、と考へたからでせう。


第二十八章

第二十八章では、フロイトからベルクソンに話が戻つて、『精神のエネルギー』に収められてゐる二つの論文、「夢」と「現在の思ひ出と誤つた再認」とが論じられます。これを取り上げる理由は、第七段落にかう書かれてゐます。

て、廻り路をしたが、こゝで、ベルグソンの「夢」に觸れたいと思ふのは、これまで述べて來た、記憶と知覺、精神と身軆との關係に關する、彼の考への根本が、彼が夢について語るところによつて要約されてゐるからだ。

第一段落に、小林秀雄は、ベルクソンが「自分の夢の觀察は、まことに不完全なものだ、と斷つてゐる。」と書いてゐます。これは、「夢」の末尾にある次の部分を踏まへたものでせう。

夢について私がお話ししたかった考察は以上の通りです。それはまったく不完全なものです。この考察は、今日われわれが知っている夢、われわれが想起することができ、どちらかといえば浅い眠りのときに見る夢についてしか妥当しません。深く眠っているときにはおそらく別の性質の夢を見るでしょうが、眼が覚めたときたいしたものは残っていません。私は、そのときの視覚像は過去にもっと拡がり、もっと細かい過去を示すものだと考えたいのです。しかし特に理論的な、したがって仮説的な理由によってそう考えたいのです。このような深い眠りについて、心理学はその努力を傾けなくてはなりません。それは単に無意識的な記憶の構造と機能を、深い眠りに関して研究するだけではなく、《心霊研究》にかかわるもっと神秘的な現象を深く調べるためでもあります。私はこの領域にあえて入って行こうとは思いません。しかし、心霊研究協会が疲れを知らぬ熱意をもって集めた研究に、私は何らかの重要性を認めないわけにはいきません。
(『精神のエネルギー』レグルス文庫版129頁)

第三段落では、「現在の思ひ出と誤つた再認」に従つて、失語症や麻痺のやうに一見して能力が欠けてゐることが分かる病に限らず、妄想、固定観念のやうな病の場合でも、積極的なものはない、といふ考へが説明されます。

第四、第五段落では、狂気と似てゐる夢の場合でも、積極性や創造性を認めるのは誤りで、むしろ、「夢の世界とは、尋常な内的世界の立つてゐる「基體」なの」だといふことが指摘されます。ここで「基體」といふ言葉は substratum の訳ですが、現象の基礎にあるものを指します。

夢は、「純粋記憶」の現れで、ある意味では、より本質的な在り方だと言へるかもしれませんが、目覚めた心よりも<有難い>ものだとは考へられてゐません。第五段落では、かう書かれてゐます。

眼覺めた状態とは、遂行すべき行爲を缺き、爲に擴散した精神全體の、壓縮と、制約との結果に他ならない。夢見る自我は、覺めた自我より擴大してはゐようが、緊張してはゐない。後者が前者より複雜で微妙な性質を持つと考へるのが自然なら、説明を要求されてゐるものは、夢よりも寧ろ覺醒であらう。

この辺りのベルクソンの書きぶりはなかなか微妙で、単純な構図には描きにくいものですが、それが彼の見た実際の我々の在り方なのでせう。小林秀雄は、最後から二番目の段落で、かう書いてゐます。

ベルグソンの説明に、曖昧を感ずる人もあらう。だが、「物質と記憶」で、記憶と知覺とは輪道を描くといふ考へが述べられてゐた事を思ひ出して欲しい。認識は、記憶と知覺との二要素から構成された或るものではない。記憶と知覺とが、同じ輪道を追ひつ追はれつしてゐる運動である。分析出來ぬ運動を、せめても描寫したいといふ努力が、このやうな語り方となる。

第六段落では、フロイトとの比較で、ベルクソンの考へ方の特徴が示されてゐます。

(フロイトの考へでは)無意識は、語るべき「思想」を持ち、充足すべき「願望」を持つ。併し、ベルグソンからすれば、それは言葉の濫用と言ひたかつたかも知れない。彼の信じたところによれば、欲するとは、目を覺ましてゐるのと同じ意味であり、思想とは知的努力以外のものを指さなかつた。

第七段落にはプロティノスが登場します。「夢」からの引用を元に組み立てられた文章ですが、ベルクソン自身が、プロティノスからの引用であるかのやうな書き方をしてゐます(レグルス文庫版「夢」では115頁)。ただ、私の調べたところでは、この部分にぴつたりと合ふ文章をプロティノスの『エンネアデス』の中に見つけることはできませんでした。詳しい引用元について、ご存知の方があれば、ご教授頂けると幸ひです。(*1)


第二十九章

第二十九章では、前章に引き続き、「夢」と「現在の思ひ出と誤つた再認」からの引用や要約を中心に話が進められます。最初の四段落で「夢」が、その後で「現在の思ひ出と誤つた再認」が取り上げられます。

小林秀雄は、第四段落で「夢」についてのベルクソンの説を次のやうに纏めてゐます。

私達は、皆、いつでも現在の知覺といふ覺醒の尖端を持つた夢といふ過去の圓錐體のうちに、ゐるのだ。精神が生きるとは、夢から覺めようとする不斷の努力であり、深い夢も淺い夢も、この爲に、私達が通過しなければならなかつた意識の、緊張度を異にする面である。私達は、或る夢から覺める事は出來るが、夢といふ圓錐體から覺める事は出來ない。夢から覺めるとは、夢を棄てる事ではない。擴大した夢を収縮させ、ゆるんだ夢を、引きしめる事が出來るだけだ。

第五段落からは「誤つた再認」に話が移ります。第二十一章のところで書いたやうに、ここで「誤つた再認」といふ言葉が指してゐるのは、最近の言葉で「デジャヴュ」と呼ばれてゐる現象です。第五段落では、ベルクソンの文章の冒頭部分を踏まへて、この現象を、以下のやうに説明してゐます。

例へば、或る人と話をしてゐると、突然、かつて、同じ人と同じ場所で、寸分違はぬ話をしたことがあるといふ確信が起り、又、突然我に還る。誰も知るやうに、この經驗は、一種不氣味なものであり、かつて見たことがある光景だといふ正常な再認とはまるで性質を異にする。全く同じ光景に、全く同じ條件で再び處した、過去をもう一度生きてゐるといふ經驗だ。現象は、一面は記憶であり、他面では知覺であるやうに、二重映しに經驗されるのだが、現在の印象とこれに似た過去の印象との單なる混同、ではない。混同するのにも、これに氣がつくのにも、多少の時間を要する、知的錯誤ではない。普通、ほんの僅かしかつゞかぬが、この過去と現在とが二重になるといふ、突如として起る經驗は、知性のみならず、感受性も意志も、ともに動かされる獨特の性質を持つた心理的經驗で、後に、夢のやうな印象を殘す。これが強く長くつゞく場合には、現實は、夢の色を帶び、多かれ少かれ自分自身から脱却し、自分が自動人形と化したやうな感を覺え、今語つてゐる事も、不可避であつたし、これから爲る事もどうしやうもなく決つてゐるといふ感情に浸る。

この現象を説明するのに、ベルクソンは、先づ、記憶は知覚と同時に形成されるのだ、といふ主張を展開します。一見、突飛な感じがする説ですが、第七段落以降に展開される理由づけは、非常に説得的で、これ以外の主張はあり得ないといふ気にさせられます。


第三十章

第三十章では、前章に引き続き、「現在の思ひ出と誤つた再認」が取り上げられます。小林秀雄は、この章の冒頭に、かう書いてゐます。

ベルグソンの分析を辿り始めたら、行くところまで辿つてみなければならない。要約不可能な彼の思想が、分析の仕方そのもののうちに現れて來るからである。

この言葉どほり、この章は、ベルクソンの文章を辿ることに終始してゐます。仏文の著作集 Œuvres では915頁の末から921頁の頭まで、宇波彰氏訳のレグルス文庫版では、154頁から162頁にあたる部分が、ほぼ原文の流れにそつて翻訳されてゐると言つても過言ではないでせう。

それほど、ベルクソンの文章を、そのまま読者に読んで欲しいといふ気持ちが強かつたのだとすれば、そんな文章を前に、あれこれと言ふのは野暮なので、細かな点ですが、翻訳として気になる部分を中心に、いくつか気づいた点を述べます。

第二段落の冒頭に、「知覺し、働きかける現在の實在に、私達の生は、たゞそのほんの一部を食ひ込ませてゐるのだが、」といふ一節があります。これは、『物質と記憶』に登場する円錐の図を思ひ描きながら読むと、分かりやすいでせう。この部分だけを見ると「知覺し、働きかける」のが「現在の實在」であるかのやうにも読めますが、原文では「私達の生のほんの一部」が主語になつてゐます。

同じ段落に、次の一文があります。

これらは、私達と他者達との間の、變化する關係を、刻々に記録するものだし、私達の行爲を決定し、方向づけるものだ。

これに対応する部分の原文は、かうなつてゐます。 ( Œuvres, p.916, l.5- )

elles notent à chaque instant la relation changeante de notre corps aux autres corps;

"notre corps"が「私達」、"autres corps"が「他者達」と 訳されてゐるのですが、"corps"といふ語は、日本語の「からだ」と同じやうに、心との対比で、物質的な身体を指すのが原義で、そこから物体といふ意味も持ちます。英語の"body"と同様です。ここでも、人間の間の関係ではなく、私の身体と外界の物体(他者の身体を含む)との関係を指すと読む方が良いのではないでせうか。

第三段落は、次の文で終はつてゐます。

だが、知覺と記憶とが全然異なるものだといふ事を、こゝで容認するより寧ろもつと先に進まう。

対応する原文は、次のとほりです。 ( Œuvres, p.917, l.6- )

Mais nous passons outre, plutôt que de consentir à une distinction radicale entre la perception et le souvenir.

"passons outre"を「先に進む」と読んだのですが、ここは「無視する」といふ意味に取るのが良く、その場合には、例へば次のやうに訳せるでせう。

だが、私達は、知覚と記憶との根本的な違ひに同意するのではなく、これ(=前に挙げられてゐる視覚の記憶を失つても、見えなくはならない等の事実)を無視する。

《脚注》

  1. 言及されてゐるプロティノスの文章

    "Œuvres" の Notes Historiques によれば、Ennéades, VI, 7, § 5-7 を指すらしいのですが、ウェブで読むことができる英訳で該当箇所をみても、ベルクソンの書いてゐるやうな詩的な記述は見当たりません。仏訳の方が、より近い感じになつてゐるので、元々いろいろな読み方ができるテキストを、ベルクソンは深く読んでゐるといふことなのでせうか。 (本文に戻る)


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