『感想』をたどる(46~50)

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第四十六章

第四十六章では、『物質と記憶』第三章の「無意識について」と「過去と現在の関係」の二節が取り上げられてゐます。この部分は、以前に第二十五章で扱はれた部分と、ほぼ一致してゐます。やりみずさんの年譜によれば、第二十五章が発表されたのが1960年6月、第四十六章は62年7月ですから、約2年が経過してゐることになります。

二つの章を読み比べてみると、殆ど同じやうな文章が出て来る部分もあります。例へば、以下の部分。

私達の周圍の事物は、私達が、これに働きかけ或はこれから働きかけられる可能的作用の總體、そのいろいろな程度を現してゐる。これは、既に證明濟みだ。この可能的作用の期限がいつ切れるかは、對應する對象の遠近に現れてゐるのだから、空間上の距離は、希望や強迫の時間上の接近に比例してゐる。このやうに、空間は、私達の近い未來の圖式を、一擧に、私達に提供してゐるものだ。この未來は、際限なく流れて行く筈のものだから、この未來を象徴する空間は、不動のまゝの姿で、際限なく擴つてゐるといふ特徴を持つ。(第二十五章)
空間線上にある對象は、私達が對象に對して行ひ得る作用或は對象から私達が受けねばならぬ作用の樣々な程度を現してゐる。この可能的作用の期限が切れる時刻は、私達と對象との遠近に正確に比例してゐる。つまり、空間上の距離は、強迫あるいは希望の時間上の接近に比例してゐる。言ひかへれば、空間は、私達に、接近する未來の圖式を一擧にして與へるのだ。空間が、私達に、未來を語つてゐる以上、空間は、不動のまゝで、際限なく擴つてゐると私達に思はれるのも當然である。(第四十六章)

しかし、第二十五章では、ベルクソンの原文を丁寧にたどる傾向が強く、殆ど要約や翻訳と言へる形になつてゐるのに対して、第四十六章では、ベルクソンの述べんとするところを、小林秀雄自身の言葉で纏めてゐるのは、これまでの章と同様です。

要約が進むと、ベルクソンの文章に、直接対応する部分を見つけることができなくなります。冒頭の節は、その一例です。

既に言つたやうに、鉛直な時間線と水平な空間線との交點だけが、私達の意識に與へられた點である。意識には、空間線上にある凡ての物は現れぬが、際限なく物が併存し保存されてゐる事を、私達は疑はない。つまり、意識外の存在も、客觀に關する場合は明白に思はれる。ところが、眼を時間線に轉ずると、つまり、事、主觀に關すると、さうはいかなくなる。其處に生起する諸状態は、生起の順序に從つて、時間のうちに消えて無くなるやうに思はれる。これは明らかに私達の錯覺であるが、この錯覺は、私達の生活の本能的な功利性に深く根ざしてゐる。

内容的にみると、この章では、第二十六章の冒頭で触れられてゐた、夢想家と行動家との対比について、詳しく説明してゐるほか、『物質と記憶』の議論を、「僞物の再認」の話で補強してゐるといふ違ひがあります。また、第二十五章にある円錐の図の説明は省略されてゐます。

この章で扱はれてゐる部分は、繰り返し述べたくなるのも分かるほど、『物質と記憶』の中でも、非常に重要な箇所の一つです。空間と時間の二つの軸にそつて展開される事象が、意識にとつて、どのやうな違ひを持つて現れるかを示しながら、その差は、存在の有無ではなく、有用性の多寡なのだといふ主張が、それです。また、私達の全過去が、私達の性格といふ形で、現在の私達の決断に関与してゐる、といふ指摘も興味深いものです。

これらは、あくまで現実の経験に即した、その意味では「科学的」な主張なのですが、初めて聞くと、奇異な説だと思ふ人も多いでせう。私達の行動の基礎となつてゐる功利性や、言葉といふ既成概念による整理が、理解を妨げてゐるからです。


第四十七章

第四十七章では、『物質と記憶』の第三章のうち、「一般観念と記憶」、「観念連合」、「夢想の平面と行動の平面」、「意識の様々な平面」の四節の内容に触れてゐます。また、最後の二つの段落は、同書第四章への導入となつてをり、同章の冒頭にある、第一章から第三章までの纏めが、引用されてゐます。

第三章に関する部分は、第二十六章で扱はれてゐたものと、一部重なりますが、第四章への言及は、これが初めてです。第三十九章以降、小林秀雄は、以前に、ベルクソンの文章を辿る形で書いてゐた部分を、自らの言葉で説き直すといふ作業を進めて来たのですが、この章の後半からは、新たな領域に足を踏み入れることになります。

『物質と記憶』第三章で、とりわけ難解なのは、ベルクソンが、現在からの呼びかけに対する記憶の反応を、二段階の運動として記述してゐる部分です。小林秀雄は、この部分を、第二十六章と、この章で、それぞれ、次のやうに書いてゐます。

そこで、記憶全體は、同時的に、二つの運動をもつて、現在の状態の要求に應じてゐるといふ事になる。一つは、移轉であつて、經驗の進む向きに動き、動作を目指して、分裂せず、縮小する。他は自轉であり、瞬間的状態に向つてゐて、これに、記憶の最も役に立つ側面を示す。
(第二十六章、第五段落)
從つて記憶全體は、現在からの呼び聲に二重の運動を以て答へてゐるわけだ。記憶全體が、常に經驗を背後にして前進する運動、行動を見詰めて、多かれ少かれ収縮して前進する運動、もう一つの運動は、言はば記憶の自轉運動であつて、記憶が、自分の、その時その時の位置方向を、保持し、これに最も有效な面を現す。
(第四十七章、第三段落)

「移轉」か、「前進する運動」か、「經驗の進む向きに動」くのか、「經驗を背後にして前進する」のか、など、かなり異なる解釈になつてゐます。田島節夫氏の訳は、次のとほりです。これが、原文に近いのではないでせうか。

換言すれば、完全な記憶力は現在の状態の呼びかけに、同時に二つの運動によって答えるのである。ひとつは並進運動であり、これによって記憶力は全面的に経験に向かって進み、こうして行動のために、分たれることなく多少とも収縮する。いまひとつは自転運動であり、これによって記憶力は現在の状況へと方向をとりながら、いちばん役に立つ側面をそこへさし向ける。
(白水社版、190頁)

ここで言ふ並進運動といふのは、『感想』では第二十五章に出てくる、逆立ちした円錐の図で、記憶が、円錐の軸方向に上下し、A'B'面やA''B''面に圧縮されることを指すと思はれるのですが、ドゥルーズは、『ベルクソン哲学』で、この見方は誤りであると、ベルクソン哲学の全体を論じてゐる120頁の薄い本のなかで、実に4頁以上を割いて、述べてゐます。(PUF Quadriage 版 "Le bergsonisme" p.60-64)

脚注(*1)に示したとほり、この説には問題があるやうに思はれますが、いづれにしても、この部分が難解であることは、かうした様々な読み方があることからも分かります。


第四十八章

第四十八章では、『物質と記憶』第四章の「用ゐるべき方法」と「知覚と物質」の二節からの引用を中心に話が進みます。第四章は、初めて触れる部分であるためか、引用の比率が高くなつてゐます。しかし、引用の順序は、原文とはかなり変へられてをり、文章も、文字どほりの訳ではなく、自分の言葉で言ひ替へてゐます。

翻訳について、一言。この章には、「生活」といふ言葉が何度か顔を出します。これは"vie"といふ単語の訳として用ゐられてゐるのですが、"vie"は、生、生命のやうな、より一般的な意味も持つてをり、この意味で読んだ方が分かりやすい個所もあるやうな気がします。例へば、第三段落の以下の部分です。

物質の本性が、どういふものにせよ、生活は、生活の要求とこれを滿足させるものとの二元性を現す

ここでは、「生活」を「生命」や「生命体」と読み替へた方が、ピンとくるのではないでせうか。

さて、これまで読んできたところについて言ふと、『感想』といふ未完の作品では、最初の一つ二つの章は別にして、ベルクソンの文章に即して話を進めるといふ姿勢が徹底してゐます。ベルクソン以外の人物も、殆ど登場しません。ベルクソン自身の文章と離れた形で登場する人物は、下記のものくらゐではないでせうか。

このやうな、ベルクソンの本文に密着して離れない書きぶりが、『感想』の読みづらさにも繋つてゐるのではないかと思はれるのですが、この第四十八章以降、それが、大きく変はります。

もし、意識をその最も直接な與件に於いて觀察し、科學を、その最も遠い理想に於いて觀察するなら、意識と科學とは、その根柢に於いて一致する筈だ
(第七段落末尾)

といふベルグソンの考へが、彼自身の予想以上に早く実現されたことを示すために、第四十九章から第五十五章まで、物理学の革命、特に量子力学の持つ意味についての詳しい記述が繰り広げられるからです。

(精神と物質の)兩者は、並行してもゐないし、斷絶してもゐない。持續するものといふ共通な絲が兩者を結んでゐるのであり、精神の持續と深い類似を持つた或る種の持續が、又、物質の本性を成す。

この「發表された當時(一八九六年)殆ど理解し難い奇怪なものと思はれた」ベルグソンの考への正しさ、「彼の物質の性質に關する直觀の豫言的な意味」を、現代物理学の動きを踏まへながら述べる部分は、『感想』といふ作品の一つの眼目として、早くから着想されてゐたものかも知れない、といふ気がします。

小林秀雄は、学生時代から現代物理学について興味を持つてゐました。岡潔との対談『人間の建設』で、かう言つてゐます。

私は若いころにそういうことを考えたことがあるのです。アインシュタインが日本に来たことがありますね。あのころたいへんはやったわけです。そのとき一高におりましたが、土井さんという物理の先生が「絶対的世界観について」という試験問題を出したのです。無茶ですよ。ぼくは何もわからないから白紙で出しましたが、それほどはやったわけです。
 それから暫くたって、ぼくは感じたのです。新式の唯物論哲学などというものは寝言かも知れないが、科学の世界では、なんとも言いようのないような物質理論上の変化が起こっているらしい。そちらのほうは本物らしい、と感じて、それから少し勉強しようと思ったのです。

難解とされる『物質と記憶』の中でも、第四章は、特に分かり難い章だと言へるでせう。読み飛ばされることの多いこの章の重要性を認め、現代物理学、特に量子力学と関連づけて解説するといふ試みは、他に余り例の見られないもので、評価に値すると思ひます。


第四十九章

第四十九章から、いよいよ、ベルクソンの思想と現代物理学との関係が論じられます。この仕事は、哲学と物理学とに関する深い知識を要するので、並大抵の仕事ではありません。この大仕事に挑んだことが『感想』を中断せざるを得なかつた理由だといふ見方もあります。

一昨年亡くなつた郡司勝義さんは、2002年9月号の『文學界』に載つた「一九六○年の小林秀雄」のなかで、量子力学と小林秀雄の関係や、『感想』中断についての中村光夫の発言を、以下のやうに紹介してをられます。

この相補性といふ言葉を、小林は現代物理學に旺盛なる興味を示してゐた當時の昭和十一年(一九三六)に、ニールス・ボーアが發表した「因果性と相補性」といふ論文から知つたのである。その内容を教へたのは、翌十二年春に三木清と一緒に「文學界」の同人となつた佐藤信衞であつた。論文は獨文でも英文でも發表された。これによつて、小林は一段と成長するのである。ボーアは「生命それ自體の定義すら認識論上の諸問題を伴つてゐるのだ、それを肝に銘ぜよ」と、足許を照らしてくれたからである。もし、これを小林が知らなかつたら『感想』(ベルグソン論)の四十九章(昭和三十七年九月號)以下、五十四章(昭和三十八年四月號)に至るまでの途轍もない彷徨さまよひかたをしなくて濟んだであらう。

 昭和三十八年の春四月、小林の許へはじめて私を連れて行つてくれた中村光夫は、そのとき早くも「小林さんのベルグソン論はあれをやつたから、必ずもて餘して失敗する。あそこはあまりにも力を込めすぎてゐる。」と言つてゐた。私は、さすがに直弟子の直覺はすごいものだと舌をまいたが、それだけにこの言には責任を持たなければならないのを、氏は充分に知つてゐたのである。令弟木庭二郎氏は京大教授からニールス・ボーア研究所所員に轉じ、國際的にも盛名をうたはれた理論物理學者だつたし、次弟三郎氏は實驗物理學者であつた。ひそかにこの兄弟たちの間で、小林の論文は噂にのぼつてゐたのである。

二十世紀初頭の物理学の革命は、相対性理論と量子力学の二つに代表させることができるでせう。小林秀雄は、先づ、「當面の問題」として、量子力学を取り上げ、「彼(ベルクソン)の豫想の或る意味での的中」について述べてゐるのですが、この部分は、第五十五章までで、一応、完成してゐるのではないでせうか。

他方、相対性理論に関する部分で、確かに、書かれずに終はつた部分があるのは、この章の最初の段落にある、次の文を読めば分かります。

今世紀に這入つて始まつた科學の急激な革命は、恐らくベルグソン自身にも驚くべき事だつたのであり、そこからアインシュタインの「特殊相對性理論」に關するベルグソンの誤解、つゞいて、自著「持續と同時性」の絶版が起こつたが、これについては、いづれ觸れねばならない。

また、岡潔との対談『人間の建設』でも、ベルクソンとアインシュタインのすれ違ひについて書かうとしたことを語つてゐます。しかし、果たせませんでした。原因の一つが、相対性理論の難しさにあるのは確かでせう。ベルクソン自身も誤解してゐたのですから。

相対性理論について、ベルクソンの誤解が、どのやうなものであつたのか、については、ミリッチ・チャペックといふ人の『ベルクソンと現代物理学』 "Bergson and Modern Physics" といふ本が非常に参考になります。同書の第III部、第8章、「ベルクソンとアインシュタイン、拡がりを持つた生成としての物理世界」に拠れば、ベルクソンの誤りは、以下の二点です。

  1. 「見かけ上」の現象と「観測できない」現象を同一視して、時間の延びや長さの縮みが、原理上、観測できないものだと主張したこと。
  2. 一般相対論での時間の延びを、特殊相対論の場合と同様に、見かけ上の現象だと考へたこと。

この本は、小林秀雄が『感想』の第四十九章以降で行つた作業を、より専門的、かつ徹底的に行つたといふべきもので、1971年に出されてゐます。チャペックは、これより先、1950年代前半に、フランス語でベルクソンと現代物理学との関係についての論文(*2)を出してゐますが、いづれも、小林秀雄が目にしたといふ記録は見当たりません。読んでゐたらば、大いに喜んだだらうと思はれるのですが。


第五十章

第五十章では、引き続き、量子力学誕生の歴史が述べられてゐます。この章と、次の第五十一章には、ベルクソンの文章は全く引用されてゐません。この章を書いたとき、小林秀雄は六十歳でした。専門ではない現代物理学について、この年齢で書くといふのは、大変な苦労だつたと思はれるのですが、どんな風に勉強したのでせうか。

量子力学が持つ哲学的な意味については、最後の段落に言及があります。

これらの状態の不連續、のみならず、これの判然と定つたエネルギーの安定状態自體が、既に空間時間の枠の中で事象の變形が連續的に行はれるといふ思想と相容れない。從つて、この思想に結び附いた因果的確定も消失しなければならない。こゝに、量子力學の意味する統計の、觀察に關しての直接性と必然性とがある。現代物理學に導入されたこの新しい思想は、どんな哲學からも導かれたものではないが、自ら、哲學に近接した思想と考へられる點で、極めて重要である。

さて、前回の話の続きですが、チャペックは、1909年にボヘミア地方に生まれた人で、第二次大戦中に、パリを経由して米国に移り、大学教授として過ごしました。科学史、科学哲学を専門としてをり、ベルクソンと現代物理学の関係については、若いころに母国語で本を書き、そのフランス語の要約とともにベルクソンに送つてゐます。ベルクソンは、これに対して、丁寧な礼状を出してゐますので、その一部を訳してみませう。(1938年7月3日付。"Correspondances" p.1596-1597)

私の持続と物質に関する見方の要点について、これほど正しい理解はありませんでした。特に、貴方は、私が一連の著作で次第に明確なものとした物質の概念が、如何にして、どのやうな意味で、どの程度、今日の物理学の結論を予測してゐたかを、見事に示されました。この点は、これまで気づかれませんでした。この問題についての私の意見が、物質の究極の要素は全体の姿に似たものと捉へるのが当然だと考へられてゐた時代に出されたので、読者を困惑させ、私の著作の理解不能な部分として隅に放置されることが多かつた、といふ簡単な理由からです。また、読者は、恐らく、それが付加的な部分だと判断したのでせう。誰も(多分、深遠な数学者で哲学者のホワイトヘッドが、ある程度、さうであつたのを除けば)貴方のやうに、そこに私にとつて極めて重要な部分があり、それが持続の理論と密接に結びついてをり、同時に、物理学が早晩向ふ方向を向いてゐたことに、気が付きませんでした。

ベルクソン自身が、チャペックの見方を高く評価してゐたのが分かります。チャペックは、ベルクソンの現代物理学の解釈を鵜呑みにするのではなく、訂正すべき部分は訂正する、といふ姿勢を明確にしてゐて、好感が持てます。誤りは誤りとして指摘した上で、チャペックは、量子力学だけではなく、相対性理論も、古典的物理学における機械的な世界像を突き崩すものであり、ベルクソンの思想とも類似性がある、といふ意見を述べてゐます。これについては、第五十二章で述べます。


《脚注》

  1. ドゥルーズの議論の問題点

    この部分のベルクソンの文章は、以下のとほりです。

    En d'autres terms, la mémoire intégrale répond à l'appel d'un état présent par deux mouvements simultanés, l'un de translation, par lequel elle se porte tout entière au-devant de l'expérience et se contracte ainsi plus ou moins, sans se diviser, en vue de l'action, l'autre de rotation sur elle-même, par lequel elle s'oriente vers la situation du moment pour lui présenter la face la plus utile.
    (MM p.188)

    以下の文から分かるやうに、ドゥルーズは、この部分を、記憶の現実化の過程を記述したものと考へてゐます。

    Notre problème est maintenant : comment le souvenir pur va-t-il prendre une existence psychologique ? - comment ce pur virtuel va-t-il s'accutualiser ?
    ("Le bergsonisme" p.58)

    今や、我々の問題は、純粋記憶がどのやうにして心理的な存在となるか、この純粋に潜在的なものが如何にして現実化するか、といふものである。

    Au contraire, lorsque Bergson parle de translation, il s'agit d'un mouvement nécessaire dans l'actualisation d'un souvenir pris à tel ou tel niveau.
    (同 p.60-61)

    逆に、ベルクソンが並進運動を語る場合には、ある水準で捉へられた記憶が現実化する際に必要な運動が問題となるのである。

    この前提から、円錐の断面が、Sのある平面に近づいても、より現実化したことにはならない、とか、平面が移動すると記憶の内容も変はつて仕舞ふ、とかいつた、反論が出て来るのです。

    しかし、このドゥルーズの前提は、誤つてゐると思はれます。ベルクソン自身が、『物質と記憶』第三章の冒頭で、記憶の現実化の過程について述べてゐる文章を読んで見ませう。

    S'agit-il de retrouver un souvenir, d'évoquer une période de notre histoire ? Nous avons conscience d'un acte sui generis par lequel nous nous détachons du présent pour nous replacer d'abord dans le passé en general, puis dans une certaine région du passé : travail de tâtonnement, analogue à la mise au point d'un apparail photographique. Mais notre souvenir reste encore à l'état virtuel; nous nous disposons simplement ainsi à le recevoir en adoptant l'attitude appropriée. Peu à peu il apparaît comme une nébulosité qui se condenserait; de virtuel il passe à l'état acutuel; et à mesure que ses contours se dessinent et que sa surface se colore, il tend à imiter la perception.
    (MM p.148)
    私たちの歴史の一時期をよび起こそうという場合、私たちは、現在から離脱することによってまず過去一般のうちに、ついで過去の或る一領野に私たち自身を置きなおす独特な働きを意識する。これは手探り仕事であり、写真機の焦点合わせにも似ている。けれども私たちの記憶は、まだ依然として潜在的状態にある。私たちはそのようにして適切な態度をとりながら、その受け入れを準備するだけだ。しだいにそれは、凝縮していく雲のようにあらわれてくる。それは潜在的状態から現実的状態へ移る。そしてその輪郭がおぼろげに姿をあらわし、その表面が色彩を帯びるにつれて、それは知覚を模倣しようとする。
    (田島節夫訳、150頁)

    この文章から分かるやうに、ベルクソンは、記憶の想起を、過去一般に身を置いて、写真機の焦点合せのやうに、ある領域を探す段階と、凝縮する雲のやうに記憶が現れる段階とに分けて考へてゐます。「並進運動」は、第一段階での動きを指すと考へるべきではないでせうか。「凝縮する雲のやうに現れる」第二段階の動きを、「並進運動」と呼ぶのは極めて不自然ですから。他方、ドゥルーズが問題にしてゐる記憶の現実化が行はれるのは、ベルクソン自身の文章から明らかなやうに、この第二段階です。

    従つて、「並進運動」の部分は、素直に円錐の軸方向の動きを指すと考へるのが良いと思はれます。写真機の焦点合せのやうに、適当な圧縮の程度を求めて上下するのであり、Sのある平面まで降りてくるのではありません。「自転」は、より複雑ですが、圧縮されながらも全ての記憶が保たれてゐる中で、現在の状況に合ふ部分を探す動きを指すものとして考へておけば、十分だと思ひます。ベルクソン自身も示してゐないやうな、複雑な、機械的な仕組みを考へることは、動的な心の動きを見失ふことにつながり、不適当ではないでせうか。
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  2. チャペックによるベルクソンに関する仏文の論文
    • "la genèse idéale de la matière chez Bergson" Revue de Métaphysique et de Morale 1952, pp. 325-348
    • "La théorie bergsonienne de la matière et la physique moderne" Revue philosophique 1953, pp. 28-59
          (François Heidsieck "Henri Bergson et la Notion d'Espace" の参考文献による)
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