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第7章 人間嫌ひ

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アランがこの章で言ひたいのは、最初の段落にあるやうに、人間嫌ひも「狂氣染みた疑心と記號の拙劣な解釋とがする業」だといふことではないでせうか。記号といふ言葉は、第3章「恋愛」でも出てきましたが signes の訳で、中村雄二郎さんは「身ぶり」とか「合図=徴し」と訳してをられます。

第2段落の前半では、青年時代には誰でも友達に見えるのが、歳を取るとなぜ疑ひ深くなるのかを説明してゐます。青年の筋肉も血も生き生きと働く状態は、見てゐるだけで気持がよく、微笑ましい。そんな周囲の反応を、若者は友情だと勘違ひするのです。だが、それは「禮儀上の約束」に過ぎない。若者は、信じた分だけ失望し、疑ひ深くなる。小林訳では「人が微笑すれば自分も微笑するといふ風だが」とありますが、若者の微笑みを見ると他人も微笑む、と読む方が良いと思ひます。

後半では、逆に、人が疑ひ深さにとらはれる様が分析されます。他人が疲れや心配などで示す何気ない仕草を、自分に対する悪意ではないかと疑ふ。さうした疑念に気付くと、相手は本当に悪意を持つやうになる、といふのです。

小林訳では

人間は誰でも、疲勞から、氣紛れから、心配から、苦勞から、退屈から、或は單なる光線の戲れからでも、各自勝手な御託を並べてゐるものだ。

とありますが、御託を並べるといふのは誤解を招くかもしれません。ここの託宣といふのは、疲労や気紛れなどから出る人の身ぶりを指してをり、具体的には、その後にある「險しい眼付きだとか和やかな眼付きだとか、或は焦燥の身振り、間の悪い微笑」などを指します。なほ「和やかな眼付き」は、中村さんのやうに「放心した目つき」と読む方が分かり易いでせう。気のない様子で、自分の話を無視してゐるやうに見える、そんな目つきを指すのだと思ひます。

第3段落では、「眞の觀察家」は何を見るかが説明されます。表情豊かだが、実は何も表してはゐない仕草には目もくれず、「動きよりも寧ろ姿で、人間を摑む」のです。もし頭で観察しようとすると、考へ過ぎになる。自分について考へ過ぎるのは、かなり危険なのだが、それに懲りてばかりゐるのも行き過ぎだ。良い生理学者として判断するべきだらう、といふのです。「あの筋肉が疲れてゐる、あの足は動きたがつてゐる、あの男は欠伸あくびを噛み殺してゐる」等々は、さうした生理学者として、他人の仕草を分析してゐるのです。

この段落に「見え難い星を見る時の樣に、視角で」とありますが、<眼の隅で>といふ意味でせう。人間の網膜の中心には色を感じる円錐細胞が、周辺には光の強さを感じる棒細胞があるので、弱い光を見るには、真つ直ぐに見るよりも斜めに見た方が、見えやすいのです。また、physiologiste が「心理学者」と訳されてゐますが、<生理学者>が普通の意味です。

最後の段落では、

人を許す眞の道は、その動機によつてその過失を理解してやる處にはない、寧ろその原因によつてその過失を理解してやる處にある。

と言つてゐます。本人の告白さえも、信用すべきではないと言ふのです。神経の発作でわめいてゐるのを、誰も、何のつもりであんな事を言ふんだらうとは思はず、あれは病気の所為だと思ふのと同じやうに。

これが、「或る意味で寛大、ある意味で嚴格」なのは、大きな過ちでも小さな過ちでも、犯してしまふのは、自分の体の動きを充分に見張つてゐないといふこと、「暗王の樣に振舞つてゐる」ことになるからです。

アランはここで、「己れをあまり嫌ひ過ぎてはいけないと忠告」してゐます。

言はなければよかつたと後悔する樣な言葉のなかに、熟考された言葉が一體どれだけあるか。

思はず出て仕舞つたそんな言葉を、後から「詮議立てして、自分の心のなかに、在りもしない悪意だとか、よくない性質だとかを探らうとする」のがいけないと言ふのです。人の機械的な動きには「善も悪もありはしない」からです。

小林訳で

僕等は他人を裁かうとすればするほど、自分自身の態度や言葉や行爲につまづくものだ。

とありますが、

我々は自分の仕草、自分の言葉、自分の行動についてさへも、他人について判断しようとするときと全く同様に、勘違ひするのだ。

と読む方が文脈に合ふと思はれます。

この章には、悲観主義は気分によるものだが、楽観主義は意思の問題だといふアランの考へ方が、よく現れてゐると思ひます。


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