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第7章 人間嫌ひについて

注釈へ

二人のしつかりと武器を持つた恐がり屋が、ある夜、アスニエール橋の上で出会つた。血が流れた。この個人的な戦ひを説明するほど簡単で、為になることはない。用心が過ぎて、さわぐ心が暴力に向かふさまを見せてくれる。恐れる心の動きは、本当の原因がなくても、我々に対してとても強い力を持ち、耐へ難いものなので、我々はそこに一つの警告を見ようとする。あの恐がり屋たちは、二人とも、歩みをゆるめ、向きを変へる。用心深い仕草は、この上なくずるがしこい攻撃に似てゐる。そのため、二人の中で、恐怖心は倍加する。多分、二人のうちの一人は早く通り過ぎようとした。別の一人が武器を出した。狂つた警戒心と印のまずい解釈の効果とはかういふものだ。

若者にとつて、どこでも敵に会ふといふのは、自然なことではない。しかし、この若者も中年になると、始めに礼儀上の約束を信じたことから、しばしば警戒しすぎるやうになる。釣り合いが取れ、力のある幸せな状態では、筋肉と血液が生き生きと、かつ、ゆつたりと働いてをり、他人にうつる微笑みがある。それで若い人は最初から気持が通じてゐると思ひ込むことになる。友情の予感だ。とり交わされる身振りがそれを助ける。人はいつでもそこに捕まる。私は、最初から、あまりに簡単に行き過ぎる人は気の毒だ思ふ。他人から期待しすぎない方が良い。ある人間について、意図や考へのやうなものを全く想像しないためには、優れた知恵が必要なのだから。失望から不信への道がどのやうなものかが分かる。多くの人がそこを通つたが、慎重さを欠いてゐた。さうして彼等は、不信感にも騙されることとなつた。

合図はいつでもある。人は誰でも、疲れから、気分により、心配して、悲しんで、退屈から、あるいは光の戯れによつてさへ、お告げを下す。厳しい目つきや気のない目つき、じれてゐる仕草、あるいは間の悪い微笑みほど、人を騙すものはない。これは、生命の働きで、蟻の動きのやうなものだ。その人間は、しばしばあなたのことなど考へてもゐないのだ。彼が、同じ理由で、あなたのやうに疑り深い時にだけ、あなたのことに気を取られる。一人でゐること、思ひめぐらすことが、かうした仕草に影響する。かうして人は敵を自ら発明する。そして彼等は、あなたの考へを見抜くと、気を悪くする。かうして人は自分の敵を作る。仕草の如何に依らず、それはいつでも狂気だ。人間は、そんな深みを持つてはゐない。

本当の観察家は、仕草には注意を向けない。彼は、何も表してはゐないこの表情豊かな動きに背を向ける。彼が人間を摑まうとするのは、休んでゐるときだ。動きの中よりも形の中で、目の端で、見えにくい星が見られるやうに。しかし彼が頭で観察すると、いつでも考へ過ぎることに気付く。この考へ過ぎるといふ悪いやり方は、自分自身が係はると、かなり危険なある種の狂気に至ることがあるのは、人の知るところだ。しかしこの苦い経験は、いつでも影響が強過ぎる。よい生理学者になつて判断すべきだらう。「これは筋肉が疲れてゐるのだ、これは脚が動きたがつてゐるのだ、これはあくびを我慢してゐるので、あれはお腹の空いた人だ。光で目がまぶしいのだ、襟が苦しいのだ、靴がきついのだ、コルセットの優しさが足りないのだ、椅子が心地悪いのだ、あの人は体を掻きたいのだ。」私の知つてゐたある理屈つぽい女性は、その上司について正しい不満を述べてゐた。しばしば彼女はその言ひ分を自分の中で繰り返して、自分が上司に言ふべきことを言つたかを反省した。この上司は耳が聞こえなかつた。

ヒステリーの発作を、自然の原因によつて理解しようとしない者はない。このやうに、我々が原因について正しい考へを持てば、怒りそのものは雑音でしかなくなり、脅しも同じ事だ。ただ、告白を信じないことが難しい。しかし、それは必要だ。過ちの告白は夢の話と同じで、話しながら作つてゐるのだから。許しの正しい道は、過ちをその動機によつて理解するのではなく、むしろその原因によつて理解する道だ。ある意味で寛容だが、別の意味では厳しさだ。小さな過ちでも、より大きな過ちと同様に、怠け者の王に行き着くのだから。ストア派に全ての過ちは同じだと言はせたのは、これだ。

わたしはそこから、自分を憎みすぎないやうにといふ助言をする。人が思つてゐる以上に、人間嫌ひはそこまで行く。そして我々は、自分の仕草、自分の言葉、自分の行動についてさへも、他人について判断しようとするときと全く同様に、勘違ひするのだ。後悔すべき言葉の中に、どれだけ熟慮したものがあるだらうか。だが我々の誤りは、それを後から計り直し、我々自身の中にありもしない悪意や、さらに悪いことには、意地悪な性格を探すことだ。この機械的な動きには意地悪なものも良いものもありはしない。君の誤りも君の徳も、君を縛り付けることはない。要するに、二つの誤りがある。人間は善意だと信じる誤りと、人間は悪意だと信じる誤りと。この二つの誤りは、支へあつてゐる。


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