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第6章 吝嗇について

注釈へ

大望たいもう家がゐるやうに、大吝嗇りんしょく家がゐる。そこでは、さわぐ心は幾つかの矮小さにより姿を見せるだけだ。グランデやゴブセックには、それさへ探しても無駄だ。彼等の大いなる企て、その強さ、決断する心、大胆さ、またその決まりを守る厳しさ、見かけに騙されないで誰かを信頼する気高さを分析するには、取引、信用と銀行についての幅広い知識が必要だ。無駄な出費を嫌ふことには深い智恵がある、と付け加へよう。人の群をうまく支配するには威厳よりも富だといふ見方にも、それがある。知性により統制され、ある種の正義に従つた一貫した活動で、虚栄心、渇望、さらには憐れみの動きにも勝るものを、さわぐ心とは呼ばない方が良い。乞食の吝嗇を説明するのに何か別ものの金への愛を発明する必要もない。彼は十分相応なものを持つまで物乞ひの生活を余儀なくされてゐるのだから。しかし、誰が十分持つてゐると誇りたがるだらうか。詐欺師、略奪、戦争により、埋められた宝は充分に説明できる。私はそこに何らの狂気の跡を見ない。

しかし、別の吝嗇で、しばしば濫費と呼ばれる無秩序にほかならないものの中には、狂気を見る。持ちたいといふ欲で盗人を生むものがある。しかし、持つことを愛すると吝嗇になる。すると彼は、その物よりも自分の権利を楽しむのだ。彼の勝利とは争ふ余地がなく、同意するほかはない権利を主張することなのだ。大多数の束の間の吝嗇者達は、二つの間で蠢いてゐる。彼等は権利を全く軽蔑するわけではないが、持つてゐること、使ふことに特に固執するので、自らに富、力、要するに自分たちをも騙す見かけの権利を与へるのだ。農民が自分の力を超えた借金をし、仕事に夢中になつてゐる時には、この幻覚が軽蔑されることは全くない。そこで心のさわいだ盲目が見つかるのは、期限の計算のまづさや、払へるさ、と言はせる欲望に合はされた誤つた判断の中だけだ。自分を頼りにし過ぎるのだ。だが、自分がやり方を良く知つてゐる一連の仕事と、これに手を貸す良い天気を前にした、この気持の軽さが誰に分からないだらうか。彼は自分で約束し、自分で払ふ。悲しいかな、彼はいつも払ひ過ぎるのだ。

決して払はず、しかし持ちたいといふ欲から何でも約束する者に移らう。本来の吝嗇はここにある。有害で、笑ふべき、不幸な吝嗇だ。彼が田舎の家を訪れるのを見よ。払ひが済んでをらず、払ふことができないので、閉ざされてゐる。濫費家の気にいるのは権利なのだ。彼が見せびらかす権利だ。まさに彼に一番足りぬものだ。しつかりとした権利と権利の見かけとの差をつかみたまへ。金持ちは見かけを飾らうとはしない。しかし借り手は見かけで生きてゐるのだ。眼に飛び込んでくる持ち物が欲しいのだ。だから金を使ふのだ。濫費家を考へるときに、支出はある種の取得法だといふことが忘れられすぎる。借り手が金を使ふといつて驚いてはならない。金はこの使ふことによつてのみ彼のものなのだ。反省によつてではない。権利は貸し手にあるのだから。

かうして狂つた借り手は狂つた出費をする運命にある。狂つた濫費が本物のしつかりとした財産により治ると、人はしばしば気付いた。何故だかは分かる。すべてがこの借り手の幻想を強めるのをよく見たまへ。彼が支払う者は彼の権利を問題にしない。貸し手もそれを問題にしない。貸し手は期限まで消えてゐるのだ。濫費家には大変な注意力が必要だらう。しかし彼は巧みにそれを控へる。濫費家は自分の勘定を考へるのを避けるとよく言はれる。しかししばしば彼はもつと狡猾だ。それを熱心にごちゃごちゃにするのだ。真実はそれを探さない限り姿を現さないのは、人の知るとほりだ。この他人の沈黙の中で、残される感動的な証拠は、払ひ、受け取るしぐさだ。しかし手に入れた物は、長くは気に入らない。他の誰かが安値で引き取る。

その他、借り手の感情は、辱められた野心のそれに似てゐて、同じ誤りへと導く。同じ控室の恐怖であり、同じ恐れと妬みが混じつた賛美だ。そこから本物の金持ちに似たい、さらにはできるだけの支出をすることで、愚か者には本物の金持ちを超えると見せたい、といふ強い欲が出てくる。しかし、この支出は人前でしなくてはならないので、借り手は貸すことはない。見抜くことはかなり簡単で、よくあるこの種の人物について述べるのはこれで十分だらう。彼が治るには、自分が軽蔑されてゐることを知るだけで十分だ。しかし彼等は自分たちの社会を作る。


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