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第2章 節制

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この章でアランは、節制が「酒を愼ん」だり、「何事につけても濫用を戒め」たりして得られるものではないことを強調してゐます。放縦を恐れて逃げるのではなく、その力や詩を理解することが、節制の正しい道だと言ふのです。

アランが、いろいろな言葉の意味を短く纏めた『定義集』では、節制について、かう書き出してゐます。

あらゆる種類の酩酊を克服した徳。したがって恐怖は節制ではない。なぜなら、それはつねに動物的部分に負けることであるから。
(神谷幹夫氏訳、岩波文庫)

翻訳に関する問題を幾つか。第2段落の最初に

酒に酩酊するなど動物染みた愚行と思ふのは大間違ひである。

とあります。酒の好きな小林秀雄らしい訳ですが、中村雄二郎さんの訳されたやうに

酒に酔っぱらうことを、動物的な愚行とばかり考えたら、とんでもないまちがいだ。

と訳す方が、その後の、酩酊が精神的なものであるといふ指摘との続き具合が良いでせう。

第3段落の終はりのあたり、

かういふ放縦の動きを計るのにかけては、羞恥よりも節度といふものの方が一段と巧みなものだ。

といふ文。mesurer といふ動詞を計るといふ意味に取つたのですが、制御するといふ意味もあるので、

節度による方が羞恥心によるよりもうまく動きを律することができる。

といふ訳も可能だと思ひます。中村雄二郎さんの訳では

節度は、恥じらいよりもいっそう動きを控えめにする。

となつてゐます。

最後の段落の、真ん中あたり。

だが自由な精神は、行き當りばつたりに酩酊する事が出來る、だが、どうしても亦酔はずにはゐられぬほど酩酊に未練を持たぬものだ。

中村雄二郎さんの訳では、かうです。

自由な精神は、ときには酔いしれることもあるかもしれない。だが、もう一度酔っぱらわざるをえないほど未練はもたない。

pouvoir といふ動詞を、「できる」と読むか「あり得る」と読むかで、前半の理解が変はつてきます。

後半については、両者の解釈は同じで、これが素直な読み方でせう。しかし、regretter といふ動詞は「未練を持つ」の他に「悔やむ」といふ意味もあるので

それを悔いて更に酔はざるを得ないといふことにはならない。

といふ読み方があり得る。正直のところ、やや無理はあるのですが、サン・テグジュペリの『星の王子様』に酒を飲んだ恥づかしさを忘れたいために酒を飲む男が登場するのを思ひ出したりすると、この読み方への未練も残るといつたところです。

先に引いた『定義集』の「節制」は、次のやうなアリストテレスの『ニコマコス倫理学』からの引用で締めくくられてゐます。

慎みながら、楽しんでいる者は節制家である。慎みながら、慎んでいるのを嘆いている者は不節制な人である。(脚注 1)

脚注
  1. 『ニコマコス倫理学』第2部第3章 1104b5

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