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第10章 公の力

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題名の「公の力」は les pouvoirs publics の訳で<公的な権力>と訳すこともできます。この章でアランが強調してゐるのは、権力に従ふのと、権力を尊敬するのは別だ、といふことです。最初の段落の後半に、次のやうな一節があります。

だがかういふ暴君のあしらひ方はどうなるか。先づ僕を暴君の野心の餌食にならない樣にしてくれる、白状するが、僕だつて暴君の長い間の空想、時にはうつとりする樣な空想に浸つてゐたに相違ないのだとしてみれば、暴君の野心も小さくはないのだ。

中村雄二郎さんの訳では「彼の野心」となつてゐて、暴君が持つてゐる野心を指すことが明確です。小林訳の「暴君の野心」は、暴君になるといふ野心を指すとも読めます。原文では l'ambition となつてゐて、私は後者の読み方の方が(あるいは、一般的に野心といふものを指すと解する方が)良いと思ふのですが、その場合は、アラン自身が野心的な夢を見てゐたといふことになります。

この段落の最後で、アランは「自分の仕事をさつさと片付ける極く單純な實務家」を政治的な指導者の理想として描いてゐますが、これは小林秀雄が昭和26年に書いた『政治と文學』の末尾の文と一脈通じてゐます。この文章には、ドストエフスキー、ジッド、ローレンス等は登場しても、アランは出て来ないのですが。

政治は、私達の衣食住の管理や合理化に關する實務と技術との道に立還るべきだと思ひます。

第二段落の

教會は恐らく、奉仕といふ言葉の唯一の眞の意味での精神の奉仕を諸權力に拒絶する事を知つてゐた。

といふ文ですが、奉仕と訳された言葉は hommage で、中村雄二郎さんは「従属」と訳してをられます。元々は封建時代の家来の主君に対する忠誠の誓ひを指す言葉だつたやうですが、普通は敬意とか、尊敬といふ意味で使はれてゐます。


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