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第10章 公の力について

注釈へ

権力の手管と、それが強ひる儀式とを説明するには、一冊の本でも足りないだらう。だが、読者よ、この旅は終りだ。たつた二ページで、君と私自身を服従の義務へと連れ戻さねば。これは家に帰るやうなものだ。尊敬することを知る者は多いが、従ふことを知る者は少ない。指導者の選び方、効果的な監視、保障について言ふべきことは多い。しかし、頭の中でどんなに立派なものをあれこれしても、先づ従ふことが必要だ。オーギュスト・コントの言葉に依れば、進歩には既存の秩序が前提なのだから。君の精神が、心をさわがせずに、この点を熟考するやうに。そして、正義のためのあらゆる反抗によつて濫用が長引くといふ、より隠された事実も熟考したまへ。

不正な権力を制し、罰する一つのやり方は、文字どほりに従ふことだ。一晩過ごさせるのは、暴君の友だ。本当の暴政とは、尊大さである。暴君は愛されことを、でなければ恐れられることを望む。暴君は許すことを愛する。寛大は威厳の最後の手段だ。しかし、厳密に従ふことで、私はその王のマントを剥ぎ取る。反抗することは、大きなへつらひだ。それは、彼に私の家を開くことだ。だが、この動きはどこに行き着くか。先づ、私自身を野心から守ること。野心とは、強いものに違ひない。私は長時間それを夢見ることがあつたに違ひないし、白状すれば、時にはそれに酔はされたこともある。私として特に望むのは、彼を意地悪にし、愚かにする喜びを、暴君から奪ふことだ。私は、仕事を簡単に素早くこなす単なる実務家が欲しい。さらに、音楽、読書、旅行その他何が好きでも良い。但し下品なことは除いて。

人は、へつらひや賞賛のない権力といふものを、多分、軍隊の権力以外には、見たことがないだらう。そして、さうしたものである限り、軍隊の権力は命令が上手い。自分が裁かれてゐると感じてゐるのだ。人間は、賞賛されてゐると思ふと、愚かなことをする。かうして、精神の最も重い罪は、力に従つて判断することだが、それは政治的な誤りでもある。智慧は、精神を身体から抜き取ることにあり、政治的な智慧は、服従から全ての賞賛を抜き取ることにある。

シーザーのために刻印された銀貨のものほど美しい寓話はない。だから、これは彼に返さねばならない。だが、私は別の言葉で言はう、「権力には服従を、賞賛は精神だけに」と。野心家はそれ以上を望まないと考へる者は、野心家をよく知らない。教会は、多分、権力に対してこの精神的な尊敬を拒むことを知つてゐた。これこそが、その名に値する真の尊敬だ。だが、この精神的な権力は、余りにぐらぐらとしてゐる。その歴史には、名誉を傷つけた力の結びつきがあちこちに見られる。教会参事会員は、美食が過ぎた。シェークスピアのシーザーの台詞は、恐ろしく見事だ。「私はあの痩せた男達が嫌ひだ。」

愛すべき、そして普通は厳しく要求することが殆どない指導者に多くの力を与へる精神的な称賛は、多分、民主的な制度の病ひなのだらう。市民は、それが無いと何者でもないと告白する者に、愚直にも信頼を与へる。力が来るのはその後で、それでも称賛は続く。それは実際のところ戻つて来た神権政治だ。神々の形は一つではないのだから。この精神的なものと世俗的なものとの混同は、全ての体制を悪くする。他方で、精神の集ひは、精神的な服従が全くないので、ある種の礼節を弁へた軽蔑により、どんな体制も良いものにする。これは、いつでも同じ精神の構へなのだ。思想たることを欲する全ての動きに対しても、忠告する力に対しても。


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