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第9章 詩と散文について

注釈へ

私は詩人の作品を読むのが苦手だ。必然性のない韻、繰り返し、塞がれた穴が見えすぎるのだ。読んで貰つたら、もつとよく分かつた。さうすると、待つことのない動きに捉へられた。繰り返しを忘れて、それについて考へる時間さへなかつた。韻は、その度に感じる小さな恐れによつて、どれも心地よかつた。聞こえてゐる詩をうまく終はらせることは、いつも、不可能だと思はれるのだから。この待つことのない動きは、即興を思はせる。かうして私を旅へと導くものを、私は詩しか知らない。ここには前文もなく、用心もない。私は自分が動き出すのを感じる。最初の言葉たちにも別れを告げる。リズムで、私はやつて来るものを察する。述べてみよといふ呼び掛けであり、最高の詩は、これに応じる。

だが、もつと詳しく調べよう。詩の中では、いつでも二つのものが争つてゐる。規則的なリズムがあり、繰り返される韻を伴ふが、私はこれを常に感じてゐる必要がある。リズムに逆らふ物語りがあり、長い時間ではないが、時折そのためにリズムが隠れる。この芸は音楽家のもののやうだが、もつと分かりやすい。また、我々に自由な想像を許さないといふ点で、より専制的なものでもある。その分、慰められることも少ない。しかし、音楽のときのやうに、あちこちに、休息のやうな和解がある。リズムのある一節と、語られた一節とが一緒に終はる瞬間が来るのだから。自然さ、言葉の単純さと意味の豊かさが、奇跡を起こすのはこの時だ。詩人がそれまでに少し苦労をしてゐることさへも、悪くはないのだ。落ちる真似をする軽業師のやうに。しかし、それはいつでも、船での旅のやうに止まることがない。詩はさういふふうに受け取らねばならない。この条件がないと、注意を引くリズムとリズムを外さうとする動きを調和させる力が全く理解できないだらう。

雄弁も、また、一種の詩である。そこには音楽的な何かが簡単に見つかる。言ひ回しの強弱、均整、響きの調整、そして予告され、期待され、言葉が奇跡のやうにそれに応へる結末だ。だが、かうした極まりは隠されてゐる。思ひが脹らむと、演説家はこれに従はないことがよくある。残るのは、時間を満たすといふ必要と、避けられない動き、心配と苛立つた疲れで、これはやがて聴衆に伝はる。しかし、ここでも読むのではなく聞かねばならない。さうしないと、繰り返しやつなぎの言葉で嫌になるだらう。だが、これは、特に演説家が議論を展開してゐるときには、必要なものなのだ。読むのでは、集まつた人達の抑へた動きが見えない。書斎の静けさと二千人の沈黙には確かな違ひがある。そして、ソクラテスが、大きな理由を述べてゐる。「君が話の終はりに来たときには、私は最初を忘れて了つた。」さらに、全ての詭弁は雄弁である。また、さわぐ心はどれも、他の者にも、自分自身にも雄弁である。確信は、時の歩みにより、また、証明が現れることで、強まる。それで、雄弁は不幸を予言するには、あるいは、過ぎ去つた不幸を呼び起こすには、特に適してゐるのだ。この人間は、不幸な者が犯罪へと向かふやうに結論に至る。終つた不幸に戻るといふのは、最悪の道行きだ。運命論的な考へがその証拠を手に入れるのは、そのやうにしてなのだから。

散文は我々を解放する。それは詩でも、雄弁でも、音楽でもない。中断された歩み、後戻り、突然の強い調子が、再読と熟考を命ずることからも感じられるやうに。散文は時間から解き放たれてをり、型どほりの議論からも自由である。かういふ議論は雄弁の一手段に過ぎない。真の散文は私をかさない。繰り返しもない。しかし、このため、人が私に散文を読んでくれるのは、堪へられない。詩は、自然な言葉が、人々が言語を耳で聞いていた時代に、固定されたものだ。しかし、今では、人はそれを眼で見る。小さな声に出しながら読むことは、少なくなる一方だ。人間は殆ど変つてゐないと、私は思ふ。しかし、ここには重要な進展がある。この知的な対象を眼が追ふのだから。眼はその中心を選び、そこに全てを持ち帰る。画家のやうに。組み直し、自分で強調し、視点を選び、全ての頂に同じ日の光を求める。散歩する者はこのやうに歩むのだが、いつでも早足すぎる。特に若く力があると、さうだ。脚が悪い者だけがしつかりと見る。かうして、散文は、正義と同様に、脚を引きずりながら進む。


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