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第9章 詩と散文

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題名のとほり、詩と散文とを対比して論じた章です。詩は演劇や 音楽と同様に、儀式的なものとして描かれます。第一段落の、詩 は聞くもので、読むものではない、といふ主張は分かりやすいも のだと思ひます。

この段落で「脚韻は常に一歩踏み出す毎に感ずるさゝやかな不安 に依つて僕を樂しませて呉れた」といふのは、うまく韻を踏みな がら意味が通るやうな良い言葉が見つかるのだらうか、といふ不 安を見事に解消してくれるといふ意味でせう。小林訳で「終るべ き時に終る」となつてゐるのは、読み違ひだと思ひます。

第二段落で、雄弁も一種の詩であることを述べた後、最後の段落 では、詩と対照的な散文を論じてゐます。聞く詩が我々を運んで 行くのに対して、散文は読者が、画家のやうに、自ら中心や視点 を選び、行きつ戻りつして、再構成するのだ、と。

末尾に

かうして散文は歩いて行く、正義の樣に跛を ひいて。

といふ文があります。正義が跛だといふのは、古代ロ ーマの詩人ホラティウスの「罰は跛をひいて罪の後を追ふ」とい ふ言葉を踏まへたもののやうです。 この言葉は、ヴィクトル・ユーゴーやテオフィル・ゴティエも、

復讐は跛だ。ゆつくりとやつて来る。しかし、必ず来る。

といふやうな形で使つたと、仏語のウェブサイトに書かれてゐまし た。http://www.abnihilo.com/p/pe_b.htm ("PEDE POENA CLAUDO" といふ言葉のところです。)

尤も、最近の言葉で justice boiteuse と言ふと、公平を欠いた 正義といふ意味になることが多いやうです。


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