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第8章 狂信について

注釈へ

儀式が無ければ狂信は無い。宗教的な狂信があるのは、宗教が儀式に富んでゐるからだ。そこで、寛容は容易になるのだが、ただ、的を外してゐる。

自分のとは違ふ意見を我慢することは非常に易しい。だが、狂信は意見を全く相手にしてゐないのだ。それが罰さうとするのは、儀式の敵である醜聞だけだ。宗教が私の言ふとほりのものであるなら、疑ひや反論では殆ど傷つかない。冒涜、この儀式に反するものが、真の罪なのである。劇場でも、特に音楽に対する狂信が見られる。これは秩序のもたらす不幸であり、多分、その罰なのだ。

群衆の中では、動きの模倣が働き、これで感情の伝染がかなり説明できる。一人の人間が逃げると、それは多くの人にとつて、追ひかけて走れといふ誘ひだ。逃げるのが群集だと、最も賢明な者も、かなり明確な物理的理由で、動かずにはゐられない。そして、走るといふのは、走るための理由でもある。泣くのが泣くための、憎むのが憎むための理由であるやうに。この模倣は、強張らず気持ちの良い慎んだ動きのために、すべてが定められ、すでに意見の一致してゐる集会で、一層強く感じられる。体が自由で、動き出せるからだ。

劇場であのやうなパニックが起きるのは、ここから来る。工場では、誰もが苦労して仕事をしてゐるので、恐怖はそれほど急には来ず、もつと先が見える。それに、急激な死によつても、全ての人の注意が急激に高まることだけで、同じパニックの動きがあるだらう。醜聞の効果は全て、各人の喜びを全ての他の人たちの喜びに結び付ける、この隠された規律の結果である。秩序の大きな不幸は、人が全ての武器を、用心深ささへ、手放してゐるといふことだ。しかし、かうした全ての反応には、さわぐ心は無い。原因が知られれば、すぐに何も残らなくなる。我々は、狂信者の暗い黙想からは、まだ遠くにゐる。

群集の狂信が、どのやうにして一人の人間に表れるのかを理解する必要がある。踊り手や舞ひ手の痙攣的な動きで、それが実現されることがある。他の人々は、自らは動かずに、見て、後押しする。単調なある種の歌や音楽が、リズムを探し主題を再発見するといふ良い効果を持つた注意力を眠らせる。この人工的な手段で、熱狂的な踊り手は、踊らない群衆を真似る。人がこの種の意図的で、高慢な狂気、動きにより維持され高められて、感覚を失ふに至る狂気を称へるのは、私には驚きだ。これは、心がさわぐ者の状態で、原因や口実さえもないことが驚きなのだ。

しかし、愛する女を殺すのが、より理性的だらうか。よく見ると、さわぐ心には、それ自身以外の理由はない。その理由とされるものは、無知な人のためのものだ。私が恐れるのは恐れるからで、愛するのは愛するからで、打つのは打つからだ。彼が踊るのは踊るからだ。しかし、ここにも、考へ込んださわぐ心、眼がくらむやうな思ひ、暴力の呼びかけ、その印を人が見つめる運命的な命令は無い。そして、疲れでこの狂つた踊りから醒める。多分、この考へを持たない身体の猛りは、心の猛りに対する素朴な治療法なのだらう。

しかし踊る方法は一つではない。静かにしてゐても、或いは仕事がないために或いは喉の埃の所為で、自然に数々の怒りや踊りが生まれる。もし何か、空想的なものでも、醜聞の対象を見つければ、たつた一人の人間の中で儀式が乱される。そこから、礼法の動きにより支へられた、忍耐力のない憎しみが来る。そして、この高まつた外的な力に、強い羞恥心と、より大きな醜聞の恐怖が加はる。一人でゐる時には自分自身に甘く、また、考へ込んで、自分自身への恐れと野心とが悪しき混合物をなす、その最初の動きが、これである。徴と予言がそこで一緒になり、我々にとつて不幸なことに、誤つた抵抗により、これらが増強されて、運命論的な考へに至る。この考へは、真の確信を持たない疑ひにより、いつでも正しいものとされる。誤つた抵抗は、ついには、このさわぐ心を全てのさわぐ心が行き着くところへと導く。この種の犯罪には、大抵の場合、共犯者も秘密を打ち明けられた者もゐない。


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