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第7章 演劇

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冒頭の

芝居は彌撒ミサと同じく、その効果をしかと感ずる爲には、屡々出向かねばならぬ。

といふ一節は、昭和11年に書かれた「演劇について」で引用されてゐます(第5次全集第4巻223ページ)。この文章の論旨は、

芝居を觀る喜びは、社會的な喜びである事を忘れてはならぬ。

といふアランの主張に呼応するものだと思はれます。

第2段落に、

芝居では、殊に音樂の無い芝居では、觀客が、純化した感動を舞臺に送り返す爲に、嚴格に規定された詩が必要である。

とあります。ご存じのやうに、フランスの古典劇では、セリフは韻を踏んだ詩で書かれてゐました。例へば、次の様に。

MADAME PERNELLE
Allons. Flipote, allons, que d'eux je me délivre.
ELMIRE
Vous marchez d'un tel pas qu'on a peine à vous suivre.
MADAME PERNELLE
Laissez, ma bru, laissez, ne venez pas plus loin :
Ce sont toutes façons dont je n'ai pas besoin.

モリエールの「タルチュフ」の冒頭ですが、délivre と suivre、loin と besoinが韻を踏んでゐます。第2段落の末尾に、「眞の幕切れは、あらゆる臺詞の終りにある。」と書かれてゐますが、繰り返される音の効果だけではなく、韻を外さずに適切な言葉を当てはめる作家の腕によつても、観客は「解放から解放へと導かれる」のでせう。

細かくなりますが、翻訳についての注を幾つか。最初の段落の

瑣細ささいな物にも好奇の眼を向けねばならぬし、心がめ付けられる樣な場合でも、苦しい處まで行つてはならぬし

といふ部分は、細事への関心が、心が過度に締め付けられるのを防ぐ、といふのが原文の意味だと思はれます。なほ、中村雄二郎さんの訳では、「好奇心をもってはいけない」となつてゐますが、小林訳のやうに好奇心は必要なものだと読むのが正しいでせう。

この段落の末尾に「自認する注意」といふ語があります。原文は l’attention avouée で、本人が何に向けてゐるかを自ら認めてゐるやうな注意、といふ意味でせう。舞台ではなく、近くの席の美人を横目で観察してゐる男もゐるでせうが、それは「自認」してゐない注意です。

第2段落のはじめに「劔劇」といふ言葉があります。原文では luttes de cabale となつてをり cabale の争ひといふ意味になりますが、ウェブで参照できる仏語辞典 http://atilf.atilf.fr/ によれば cabale といふ語には「陰謀」とか「徒党」などといふ一般的な意味に加へて、「劇をぶち壊したり役者の演技を邪魔するために組織された一団」といふ特殊な意味があるやうです。

同じ段落の「特殊な細い事を氣にして苛々いらいらしてゐる芝居狂」といふ部分は、dans le particulier といふ句を「特殊な細い事」と訳したと思はれますが、これは「一人でゐるときは」とか「普段の生活では」といつた意味の慣用句です。


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