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第10章 様々な感覚による想像について

注釈へ

想像するとは常にある客体を考へ、それが我々の感覚にどう働きかけるかを自らに示す(se représenter)ことだ。視覚にしか係らないやうな想像は、想像ではない。状況も形もない色のついた刺激(impression)にしか過ぎまい。心像を人の体の現象に引き戻す度合ひに応じて、人は想像から自由になれる。幽霊を想像するとは、ある場所にそれを見て、どう動けばそれに触れるかを自らに示すことでなくて、何だらう。この点を十分に反省しないので、(にはか)哲学者達は視覚だけの想像、触覚だけの想像やそれに対応した人間の類型を語るのだが、かうした研究はそれほど先には進まない。全く視覚的な心像だけを知覚するのは易しくない。なぜなら、それには常に起伏や距離が、そこから筋肉によるある種の注釈が含まれるからだ。だから曖昧な答か、余りに(あつら)へ向きの答を予想しておかねばならない。この点を一言で言へば、心像といふものはなく、想像された客体があるだけだ。この例は、反省がここでは研究の先に立つて、道を照らしてやるべきなのを良く示してゐる。

この留保をしておけば、我々が個別の感覚でどのやうに想像するかを調べても良いだらう。味覚と嗅覚については、多分余り言ふべき事は無く、実物の客体が想像力に提供する材料は、身体の反応、特に吐き気の動きのやうな意図的ではない反応が提供するものよりも少ないといふこと位だらう。さらに言へば、これらの感覚の想像は、しばしば他の感覚による想像によつて決められる。味は良いのだが見掛けでは不味いと予想される料理のあることは誰でも知つてゐるだらう。病気によつてより繊細に、鋭敏になつた感覚で、普通はとても弱い臭ひや味が現れることもある。かうして想像は真実であるのだが、我々はそれを知らない。それに、何らかの意味で真実でないやうな想像など無い。なぜなら宇宙は様々なやり方で絶え間無く我々に働きかけるし、我々の夢は、どんなに荒唐無稽なものでも、何か実物の客体がその契機になつてゐないものは、多分無いだらう。想像するとは、従つて、いつでも何かを知覚するといふことだ。ただ、(つたな)いやりかたで。

この性質は、視覚的な想像でも同じやうに見られる。人はそのことを十分には考へないが。雲や茂つた木の葉、あるいは古い天井や壁紙の複雑に交はる線が、我々に人の顔や怪物を想像させやすいのは、明らかだ。黄昏(たそがれ)や影の悪戯、また強すぎる光でも、同じ効果があることは誰でも知つてゐる。煙や火は、夢見る人には格好のものだ。

さて、次ぎに我々自身の眼が、特にそれが閉ぢられてゐる時に、夢に提供するものについて述べなければならない。誰でも目をかたく閉ぢると、明るく照らされた客体の像を見ることができる。これはただ(神経の)振へが続いてゐるか、あるいは補色の陰画で、疲れの為せる業である。また、多分、我々の網膜は完全に休むことはないのだらう。圧力や電気刺激がそこに薄明かりを出現させるのは、皆知つてゐる。また、大読書家は色のついた変化するあの毛玉を知つてゐる。多分我々の夢の最初の横糸となるものだ。私は何度か、眠る前の瞬間に、この動く形が人や家の像に変はるのを見た。しかし、かうしたものを感じ取るには、注意と目を覚ました批判が必要だ。心乱れた者(passionnés)は、物の像を自らの内に見ると言ふのを好む。どういふ意味か説明しようとはしないで。私の意見では、全ての視覚的像は私の外にあり、心像といふ性格から、それ自身の外にある。私が夢の中で散歩する森は私の体の中には無い。私の身体がその中にあるのだ。魂の眼はどうしますか、と人は問ふ。だが、魂の眼とは、私の眼のことだ。

そして最後に、私自身の動きの効果を考へねばならない。物の動きを想像するときには一番重要なのは明らかだ。私の頭のわづかな動きで全ての物が動く。誰でも確かめられるやうに、私の動きは像を乱すこと、瞬きは補色の像を(よみがへ)らせることを付け加へておかう。しかしここで一番大事なことは手の動きで、そこにない物を我々の眼の前に描き出し、素描、塑像により我々の夢を本物の客体として固定する。私がここで考へてゐるのは、ただの動き回る鉛筆(クレヨン)だが、その偶然の動きに我々自身が驚かされる。かうして我々はこの章の中心となる考へに導かれる。それは、思はれてゐるほど我々はものを考へ出すわけではない、といふことだ。私はこの瞬間に強烈な赤を想像してゐると思ひ、同時に前にあるノートの赤い縁を感じ取つてゐる、といふことが一度ならずあつた。

同じことが聴覚的な想像にも言へて、多分、より知られてゐる。まづ、風、滝、車、群集のはつきりしない音は、言葉や音楽になるといふこと。列車の進行は我々にリズム(律動)を示す。呼吸や血の脈動は我々の耳に働きかけ、ぶんぶんいふ音、耳鳴り、がんがんいふ音を生む。さらに、我々は話し、歌ひ、踊るので、耳に響くもの(images auditives)は形を与へられ、仲間を呼ぶ。ここで音楽の霊感についての研究には立ち入るまい。ただ、夢で我々が聞いてゐると思ふ声は、多分しばしば自分の声であり、叫びは自分の叫び、歌は自分の歌なのだと言つておかう。それと共に、我々は息、筋肉、血で拍子を取る。これで交響楽の出来あがりだ。

あとは触覚が残つてゐる。これは難しくない。第一に、物は、寒さや暑さ、風、圧力、摩擦により、絶え間無く我々に働きかける。第二に、我々の触覚は、生命の動き、疲れ、痙攣、熱、傷害により、常に変へられる。我々は(つま)み、(ねぢ)れ、螺子(ねぢ)(のこぎり)を感じると思ひこむ。あるいは、また、胸の周りに綱を、のどに乱暴な手を、押し潰されさうな重さを想像する。さらに、我々の軽い動き、激しい動きは実に生々しい刺激(impressions)を与へる。戦ふ夢を見る人は、自分を殴ることもあり得る。自らの腕を縛り、壁にぶつかり、身を硬くし、(よぢ)る。これが我々の最も悲劇的な夢の源だ。そして、それに全く気が付かない。だが、これはさわぐ心に触れる話だ。大きな話題だし、一度に何もかも言ふことはできない。


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