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第9章 想像について

注釈へ

想像を誤つた知覚と定義すると、多分一番大事な点を強調することになる。人は想像を内部での、思考の自らとの戯れ、自由で現実の客体を持たない戯れと考へがちなので。すると一番大事な点を逃すことになる。つまり、想像と我々の身体の状態や動きとの関係だ。想像する力については先づ知覚の中で考へてみるべきだ。与へられたものをしつかりと掴んだうへで、我々が多くを思ひ当てるといふ危険を犯す時だ。かなり明らかなことだが、その場合、知覚が想像と異なつてゐるのは、我々の全ての経験との繋がりや我々の予測全てを一刻一刻確かめることだけによるのだ。だが、最も厳密な知覚でも、想像は常に駆け巡つてゐる。あらゆる瞬間に姿を現しては、素早い取り調べ、観察者の小さな変化、そして(しつか)りとした判断によつて排除される。悪霊を払ふこの確りとした判断の価値は、とりわけさわぐ心の戯れにおいて現れる。例へば恐怖が我々を狙ふ夜に。また真昼にも、神々が樹から樹へと走る。それは簡単に分かることだ。我々は軽々しく、どんなに弱い兆候に基づいてでも判断するので、我々の正しい知覚は飛びまはる誤りとの絶え間ない戦ひなのだ。我々の夢想の源を遠くに探すには及ばないことが分かる。

しかしまた、我々の感覚の器官それ自体が、我々の発明の材料を提供することがよくある。それ自体といふことをよく分かつて欲しい。我々の身体は外的な原因により様々な仕方で変化して止まない。だが、我々の器官の状態や生命そのものの動きが、弱いながらも他のものが静かにしてゐればかなり強烈な印象を与へることにも留意せねばならない。熱を持った血が耳で鳴り、口が苦味を感じ、震へやもぞもぞが皮膚を走るのはさういふ場合だ。我々が短い瞬間、物を思ひ浮かべる(nous représentions)にはそれで十分だ。これがまさに夢見ると呼ばれることだ。

さらに、我々はしばしば自分の動きによつて心像を探し、むしろ作り上げる。ここでは視覚は控へめな役割しか果たさない。我々のしぐさやクレヨンが描く形を目が追ひかけたり、目を激しく動かすと現実の知覚が乱されて神々が走るのは別として。聴覚(耳)は私達の言葉によつてずつと直接的に変へられる。我々の言葉は現実の客体で、低い声で話す時にも、我々はそれを感じ取る。特に触覚(肌)は、我々の動き一つ一つによつて、自らに刺激を与へる。私が自らを鎖につなぎ、自分の首を締め、自分を(たた)くといふことが起こり得る。かうした強い刺激は、狂人の錯乱の中では、多分、少なからぬ証拠となつてゐよう。ここには、想像とさわぐ心との結びつきが見られる。逃げる人はどんな物もきちんとは見ないので、自分の背中で何が起こつてゐるか余計に分からなくなるし、乱れたしぐさで心臓や肺の動きを倍増させ、走ることで木魂(こだま)を呼び起こす。どんな動きでも、定まりがないものだと、感じ取られた宇宙を乱す。

かうして我々はこの世界の保存者であり建設者であり、絶え間がない。また、衝動的な動きに身を任せると、(たちま)ち悪魔や誤つた証拠の発明者になる。それに、宇宙は豊かで、我々の迷ひにいつでも何か物の影を提供する。想像に関はる事すべてにおいて、いつでも三種の原因が見つかる。外の世界、身体の状態、それに動きだ。しかしながら、三種類の想像を分けて考へるのも悪くない。先づ、統御された想像で、これが誤りを犯すのは勇猛果敢に過ぎる場合だけだが、その場合にも常に、ある遣り方に従ひ、経験の管理の下にある。刑事が足跡や(わづ)かなほこりについて考察するのがさうだ。自分の犬を殺してしまふ猟師の失敗がさうだ。別種の想像で、物に背を向け目を閉ぢ、命の動きやそこから生ずる弱い刺激に特に注意を傾けるものは、空想(fantaisie)と呼べよう。統御されたのとは違ひ、物には全く係はらない。その場合、目覚めは突然で全面的だ。他方、統御された想像では、目覚めは一瞬、一瞬のものだ。最後にさわぐ心の想像は、痙攣的な動きや叫び声でそれと分かる。

別の意味で統御された想像で、三種の想像の性質を持つものがある。それは詩的な想像で、後で扱ふ。ここでは、詩人がどうやつてひらめきを探すかだけを考へて見たまへ。ある時は物を感じ取る、しかし幾何学抜きで。ある時は夢うつつ、ある時は身振り手振りで大声を上げる。ある種の詩、例へば建築や絵画では、より客体に向かひ、別の種、例へば舞踏や音楽では、材料を全て主体の身体そのものから得る。だが、芸術はさわぐ心やとりわけ儀式にも依るところがある。だから、今、これ以上云々するのは適当ではない。


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