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第9章 想像

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冒頭の文章、

想像を間違つた知覺と定義する時、人は恐らく一番大事な點を衝いてゐる。

が、アランがこの章で言ひたいことを尽くしてゐるのではないでせうか。

想像も、孤立した心の中の戯れではなく、我々の身体が外部から、あるいは内部から受ける様々な刺激によつて生み出されるものであり、知覚と共通の根を持つといふので、一見、全ては物の世界が中心だといふ唯物論的な議論に見えますが、実は、魂といふものとさうでないものとを峻別しようとしてゐて、機械的な働きは魂の側に入ることを拒まうといふ気持ちが強いために、かうなつてゐる、私はさう見てゐます。

いつもの様に、原文と小林訳を読み比べて気づいたことを中心に書いてみます。

第1段落に

想像力は、まづ知覺のうちで考へてみなければならぬ、與へられたものが、はつきり掴(脚注 1)めれば、いろいろ思ひ切つた推察を行ふ事が出來る筈だ。

といふ文があります。これは原文も分かり難いのですが、後半は直訳すると

(知覚するといふのは)与へられたものをしつかりと掴んだうへで、我々が多くを思ひ当てるといふ危険を犯す時だ。

といふ感じです。知覚するとは、受動的に刺激を受け入れることではなく、受け取る人間の能動的な働きもそこに大きく係つてゐることは、これまで見てきたとほりですが、その能動的な働きは的を外すこともある、と言ふのでせう。

これに続いて

が、この場合、知覺と想像とを區別するには、僕等の經驗といふものをすべて結合してみるとか、僕等のあらゆる豫想といふものを絶えず吟味してみるとかしなければならない。

といふ文があります。ここも原文の流れに沿つて、補足しながら訳すと、つぎのやうになります。

かなり明らかなことだが、その場合、知覚が想像と異なつてゐるのは、我々の全ての経験が繋がつてゐることや我々のあらゆる予測の正しさを一刻一刻確かめること、それだけだ。

その次の文章では、想像が

姿を現しては、觀察者のちよつとした動きによつて、慌しい詮議立てによつて、結局は確固たる判斷によつて、姿を消すものだ。

といふのですが、原文では「慌しい詮議立て」が「観察者の動き」の前に書かれてゐます。なぜ、小林訳で順番が変へられたのかは、不明です。また、「慌しい詮議立て」といふ言葉は否定的な含みがありますが、原文 enquête prompte はむしろ重要な働きとして挙げられてゐると感じます。素早い調査、とでも言へませうか。

第3段落では規則的想像、幻想、情熱的想像の三種が区別されます。二番目の幻想は

前者同樣物と交渉しないが、前者が刻々に目が覺めるのに反して、後者は突然われに還る。

とありますが、前者の規則的想像は物と交渉するので、

前者の様には物と交渉せず

と読むべきでせう。

最後の段落では、この三つの想像に対応する形で詩的想像について言及されます。芸術はアランが好んで扱つた主題です。


脚注
  1. 原文では手偏に國といふ字です。

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