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第14章 前後関係(つづきぐあひ)について

注釈へ

理論では、前後関係(つづきぐあひ)の真の順序が、実際には人がそれを変へる場合でも、いつでも判断によつて再発見される例が提供される。はつきりと決められた順序の一番簡単な例は、整数だ。かうした種類の知識が思ひ出を整理し、固めることには役立たないと言つてはならない。教育のほとんどない人達でも、思ひ出の順序を決めるのに日付を使ふのだから。

また、前後関係と、それについての我々の知識とをはつきり区別する必要がある。一方が他方につながらないのは、普通に経験されることだ。我々の思ひ出が、たとへかなり正確なものであつても、自動的にその順番で(よみがへ)つて来はしないのは明らかだ。中身では時間的な関係を全く持たない三通の電報を受け取つたとしたら、どの順に受け取つたか決して分からないだらう。だから、かうした場合、番号を付したり、時間を印字したりするわけだ。これでも、数字の列を前後関係の順序を決めるために使ふのは、普通だといふのが分かる。十分に気が付かれてゐないことだが。私としては、定義された前後関係が全ての前後関係の典型、あるいは模範であると考へたいところだ。理論と経験との関係が検討される際に、この意見がある程度自明なものとならう。ともかく、実際に、暦の数字の列がなかつたとしたら、人間は互いに、或いは自分たちの中で、思ひ出の順序について果てしなく議論するだらう。

また、物の中にある前後関係と我々にとつての前後関係とを区別する必要がある。大砲の音は発射の光に遅れるのではないが、遠くにゐると、私にとつては遅れる。ただ言つておくべきなのは、記憶を扱ふ者には、物の中にある前後関係は主なものではないといふことだ。それは、我々が自分の生の歴史を秩序づけるのに他の手段が無い場合に、付随的に考へられるだけだ。

さて、我々の経験の中で、変はることのない前後関係の順序をどこに見出すことができるかを探すと、二種類のものに気づく。まづ、物の順序は我々の知覚にある種の順序を押しつける。辿(たど)るべき道を示せば、共に在る諸物の一つの順序と、知覚のはつきりと決められた前後関係を同時に述べることとなる。「最初に小屋が見えます。それから四つ角、それから垣根、そして低い道。」実を言へば、ある場所から別の場所へ行く道は一つではなく、宇宙を廻るには数千の方法がある。共に在る諸物には、あるはつきりと決められた計画と関係づけないと、前も後もない。しかし、ある道筋と、動きの向きを与へると、前後関係の順序は共に在る諸物の順序と同時に決められる。私が旅の思ひ出を順序づけるのに、リヨンがパリとマルセイユの間にあることを知るのは無益ではない。

しかしながら、前後関係の順序の決めは、その上にはつきりと区別できる点がわかるやうな、途切れの無い線に沿った、簡単な動きでないと、厳密ではない。この順序は数字の順序に似てをり、続きでは、どの点から出発しても二つの方向があるといふ点が違つてゐる。かうしたある線に沿つた旅を調べてみ給へ。点の前後関係(つづきぐあひ)はどんな風にも取り替へられるのではないことが分かるだらう。ある点に行くためには、いつでも別のある点に行かなければならない。私の意見では、この種の抽象的な旅は、全ての旅の典型や手本になる。この記憶の研究では、それをどこから捉へようと、反省する思ひ(pensée)が、その形やそれ自身の符号の助けを借りて、働いてゐるのに気づく。人が何故それに驚くのか、私には分からない。

もう一つの前後関係は、世界の中の出来事の前後関係だ。ここでは、過去の項目(termes)は消える。二度と見出されることは無い。エドゥアール三世は一度しか戴冠せず、一度しか死なない。私がある試験に合格するのは一度だけだ。大砲の一発が鐘楼の残りをなぎ倒す。廃墟が鐘楼に続く。私が崩壊以前の瞬間の状態で鐘楼を見ることは、決して無い。多分、出来事の順序を知り、再構成するには、長い経験と他人の教へ、そして補助的な考へ(idées)が必要だらう。誰もが思ひ出すときにはこの仕事をすること、正しいか間違つてゐるかはともかく、可能と不可能を呼び出しながら自らと議論することは、明らかだ。ここでも、物を何度か最初の状態に戻してやり直せる実験室での経験から、我々は単純化された設計図を得てゐる。それは、前後関係には因果といふ考へが、前後関係の中の真実としてあるといふことだ。

誰でも、「あれはカルノー首相の死ぬ前だつた、何故なら、その日彼を見たから」、とか、「あればバカロレア前だつた、何故ならその頃、某リセで勉強してゐたから」と言ふことがある。日付を確認する術とは、漂ふ出来事を、固定され、はつきりと決められた続き、最終的には天文学上の出来事、に結び付けることに過ぎない。この種の手助けが無いと、我々は自分の人生で最も大切な出来事についても疑問を持ち、解決策がないだらう。先回りしよう。前後関係についての理論的な考へ(idée)、つまり原因と結果の関係により、我々は経験の中の前後関係を知覚するのだ。さもないと、我々の思ひ出は数珠の如く、いつも同じ順序で、物のやうに我々に戻つて来ると言ひ張らなければならないが、そんなことは無い。実際は、我々の思ひ出は気まぐれに現れ、その真の順序は、絶えず考へによつて再発見されなければならない。考へは正しかつたり誤つてゐたりだが、ある種の科学に対応してをり、科学にも進歩の程度の差はあるが、科学であることは変はらない。

自立運動により、身体を動かす記憶といふ意味でだが、我々に一瞬一瞬使はれる補助的な繋がり(séries)が与へられる。しかし、確信の持てるものは数少ない。数の続き、週の曜日、月、アルファベットの文字、プリズムの色、音階の音、調性の順、主な歴史の出来事がそれだ。しかし、我々がこの順を固めて、誤り無く再生するのに苦労することからも、知覚したとほりの順序で過去の出来事を繰り広げるやうな、自然な全く本能的な記憶といふものが我々には無いことが良く分かる。

要するに、我々にとつての前後関係は、真の前後関係によつて決められ、真の続きは原因といふ考へによつて決められると言へる。原因の考へとは、続きの理論的な考へに過ぎない。この重要な考へは、この章では説明できない。が、ここで示しておく必要があつた。


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