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第17章 主観的なものと客観的なもの

注釈へ

さて、これはやや野蛮な言葉だが、慣はしで避けられない。それに、全ての知識にあるこの二つの要素、私だけの形も繋がりもない印象と、秩序ある、表現された、真実のこの宇宙全体、つまり客体と、これを他にどう説明するのか。ここで省察する際に、詰まるところ弁証法的な(議論の上の)誤りに陥らないやう注意する必要がなければ、これで十分なのだが。といふのは、言葉による誤りを指してゐるので、読者が分かつてゐるとほり、我々の夢想や夢の骨格を成すものだ。私が言ひたいのは、哲学者達が不注意に扱つて、各自のなかで一つの時間が流れ、それぞれの思ひ出と隠された考へとを運ぶのだと思はせる、内面生活のことだ。それは、既に見たとほり、お話しが流れてゐるだけで、いくつかの心像に彩られ、あるいは実際の物の、通りすがりに掴まへられ、見損なはれたのに、つまり他の物と結びつけ損ねたのに飾られてゐるに過ぎないのだ。我々が、それは不完全な知覚だと言ふことで、言ふべきことを尽くしてゐる、そんな夢を考へてみよう。

私の(まぶた)に当たる陽の光が、現実の世界へと目覚めさせる前に、私に幻想的な光景、火事や稲光を想像させることがある。私は言葉でそれを述べ、補ひ、後日、私が物語つてそれが完成する。人が、夢を語りながら、それを組み立ててゐることは明らかだ。いつでも、我々の内面生活はかうして育ち、いつでも物に翻訳された印象により作られる。しかし、完全な知覚には決して至らない。あるいは、さうなると、人は目覚めるのだ。そして、目覚めるとは、まさに物の真実を目や手の動きで探すことだ。我々の夢は、知覚のない状態、探さない状態から、批判の努力により物が実際にある状態への、通り道だ。この怠惰な試み、それが夢だ。この点をしつかりと掴むことは、さわぐ心を正確に知る為に大切だ。

だが、この内面生活がどのやうに築かれるか、よく見給へ。幽霊を本物だと思つてゐる限りは、私はそれを自分の外に考へる。物の秩序や真実の客体を現はす批判と同じ努力によらなければ、それは私の内に入らない。客体の真実を前提とする、測られた共通の時間を考へないで、眠つてゐた、夢を見た、とどうして知ることができよう。私の思ひ出は、実際の整理された客体についてのもので、それを私はいつでもこの世界の中で考へる。ここには無いが遠くにあり、過ぎ去つたのではないものとして。私が見た街を思ひ出すとき、それは他の人達にはまだあるものとして考へる。それが破壊されたと知つてゐる場合でも、その廃墟はあり、一つ一つの石は見つかるだらう、少なくともそれぞれの欠片(かけら)は見つかるだらうと考へる。

この何物も失はれないといふ考へ(idée)は、厳密な思考にとても重要なのは知られてゐるとほりだが、殆ど調べてもゐない思ひ出でも、これが支へてゐるのだ。時間の記憶は場所の記憶と結ばれてゐるといふことは、いくら繰り返しても足りない。私達の歴史とは、この現実世界の中の旅だ。私達の変化は外部の変化の中で、客体の変化の中で考へられてをり、そこでは全てが場所を変へるだけで、保たれる。私は、一つしかない実際の知覚の繋がりによつて私である。それが思ひ出の主なもので、その他はこれにぶらさがる。最も洗練された者が、自らの古い感情を探すのに、まづ物を、あるいはその残骸を探すのは、理由の無いことではない。私は、ただ世界によつてのみ、自分を考へる。

これをカントはかなり分かり難い定理でかう言つた。自己の意識が外部の物の存在を十分に証明する、と。主観的な見かけの生活から、真の客体へと、ある種の飛躍をするには及ばず、逆に見かけは、真の客体によらないと現れないのだ、と彼は言ひたかつたのだ。例へば、真の立方体がないと遠近法がないのは明らかだ。わたしがそれを見る見方には、私がそれを、見えるやうにではなく、それがあるやうに考へることが、いつでも前提となつてゐる。他の場所とおなじやうに、私はここでも難しい点を示すだけだ。ここで哲学的な反省といふものを掴まへねばならない。指針となる考へ方(idée)として、客体のない考へ(pensée)は(のり)を持たない考へであり、お(しやべ)りに過ぎず、同様に判断のない経験は物を捉へることができない、といふことをしつかり心に留めて置かう。この二つの真実は、科学の歴史が十分に示してゐるのだが、普通は驚くだけで、そこから学ぶことがない。


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