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第16章 時間について

注釈へ

人は、哲学的精神を示せると考へ、まづこの表題を批判し、一つの時間(le temps)があるのではなく、複数の時間(des temps)があるのだ、つまり個々の存在に固有な時間があり、客体の中には時間といふものは全く無いのだ、さう言つて喜ぶことだらう。この考察は、手始めとしては悪くないし、時間とはある規則的な運動、太陽、時計、あるいは星の動きのやうな運動のことだといふ(ひど)い誤りを払ひのけるためにも、悪くない。しかし、そこに留まることはできない。我々がこの言葉により何を考へてゐるのかを言ひ表さなければならない。そして、我々は唯一の時間、誰にも全ての物にも共通な時間を考へてゐるのだ。より精密な現代物理学者の逆説では、観測者の運動、例へば光よりも早いもの(脚注 1)、によつて変はる地域的な時間が要求されるのだが、それだけ唯一の時間といふ考へを一層際立たせる。何故なら、それは我々が二つの行為の同時性を確かめる絶対的な手段を持たないと言ふことに帰着する。だが、それ自体が、もし我々が全てのものの同時性があると知らなかつたとすれば、意味を成さないだらう。

私の腕時計の文字盤上を秒針が進むのと同時に、目盛ごとにあらゆる場所で何かが起きる。前でも、後でもない。経験のなかでは、私が同時性と呼ぶ二つの出来事の関係を、厳密に発見することは決してないかも知れない。しかし、私の中のある変化と同時にあらゆる場所で他の変化、他の出来事が起こつてゐるのだと、考へないではゐられない。同様に、私の中のものと同時に、これまで他のものがあり、これからもあるだらう、と。私は彼方の星雲が凝縮し、あるいは拡散するのと同時に生きてゐる。星雲にとつて、私と共通の一瞬があり、さらには、全ての瞬間は私と星雲に、そして全ての物に共通だ。ある同じ時間に、一つ限りの時間の中で、つまり時間の中で、全ての物が成る。時間がある者に対しては止まり、他の物に対しては動きつづけると考へたがるのは馬鹿げてゐるだらう。それをカントは次ぎのやうな一種の公理で表した。二つの異なる時は、必ず続いて(前後して)ゐる、と。

二三の空間が唯一の空間の並存する一部であるやうに、二三の時間は唯一の時間の相ひ前後する一部である。この考へをあらゆる方法で調べ、ひつくり返してみ給へ。そして、ある概念の中で自分が考へてゐるものを知り、その代りに別のものを想はないやうに十分注意するといふ、哲学の方法を、ここで掴み給へ。ある時間が他のよりも早く過ぎる、他のよりも進む、あるいは遅れると言ひたがる人達は皆、まさにさうして仕舞ふ。時間ではなく、運動と言ふべきだつたのだ。何故なら、運動には速さがある、と言ふより幾つかの運動は速さを比べられるが、同じ時間の中でだ。二つの動く物が同じ時間に同じ距離を走ると、同じ速さだと言ふ。だが、時間の早さと言ふのは、よく考へると、許されない。二つの時間の早さを比べるには別の時間が必要だらうから。そして、本当の時間とは、そこで運動を比べることが出来る、この唯一の時間なのだ。

ある意味で、時間について思ひ澄ますのは、哲学者の真の試験だと言へよう。時間の心像といふものは全くないし、時間の感覚的な直感もない。だから、それを完全に逃すか、これはかなりお粗末な間違ひだが、あるいは、同時、前、後といふ純粋な関係の中でそれを掴むか、しかない。だが、空間も同様の誤解を生むのだと言はなければならない。空間の心像といふものもないのだから。真の直線は、部分を持たず、描かれることはない。空間は大きさも形も持たない。物が、空間により、大きさと形を持つのだ。それがよく知られたポアンカレの逆説の意味だ。「幾何学者は、空間を使つて幾何をやる、白墨を使つてやるのと同じやうに。」彼が言ひたいのは、感じられる空間だが、何もない巨大な蒼空のやうに、純粋化された空間を使つて、といふことだ。そして、この想像された空間が空間でないのは、違ひのない(一様な)動きが時間ではないのと、同様だ。この運動は、他の全てと同じやうに、時間の中で起こる。ただ、二つの変化の同時性をできるだけうまく極めるのに、便利なだけだ。

時間が欠けることはない。始めも終わりもない。全ての時間は時間の一つの連なりだ。時間は続いてゐて分けられない。かうした命題(言ひ立て)は、時間を運動で表す安易な心像から自由になつてゐないと、うまく明らかにはならない。例へば、時間は分割できない瞬間から成つてゐるのかと問ふ、それは時間を運動で置き換へることだ。さらに言へば運動の心像で。何故なら運動は悟性に取つて挿話の繋がりとは別物だから。また、無益な弁証法が永遠を発明して喜んでゐるのも、多分、時間を物質化したためだらう。ここでも、物と考へidéeとを区別すべきだが、離れ離れにしてはならない。我々はそんな風に考へる。また、我々が日常の判断で考へてゐることを正確に知ることの大切さは、小さなものではない。結論として、時間は、空間と同様に、普遍的な経験の形である。この真実は新しくはない。だが、それをしつかりとわかることはいつも新しい。


脚注
  1. 原文どほり。相対性理論では、光速よりも大きな速度はないとされるので、誤解か誤植と思はれる。

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