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第10章 自然法則

注釈へ

自然の秩序には二つの意味がある。先づ、この世界にはある種の単純さと同じものごとの繰り返しがあるといふこと。例へば、元素は60ばかりしかなく、百万や二百万ではないこと。また、固体、つまり大抵は同じ形で同じ場所に再発見できる物があること。もし液体しかなかつたとしたら、我々の機械を何処に据ゑればよいのだらう。もし、いつも新しい物質があつたとすれば、化学者は途方に暮れただらう。それは運が良かつたのであり、いつまでも続くとは言へない。

ここで弁証法により神まで遡つて、簡単で誰にも分かる理屈で、万物の素晴らしい主は、人間の知性が対象を持たないことも、試練を受けないことも望まれなかつたのだ、と陳べることもできよう。この種の哲学を、私は超越的と呼ぶのだが、これは囀ることが鳥には自然であるやうに、人には自然なものである。だがかうした論理展開 développement の真の力は、何度も崩され、そのたびに建て直される証明に在るのではなく、先づ、外的な条件と生命自体との間には自然に適合があるといふ考へ idée、そして、我々はそこにしつかりと結び付けられてゐるといふ思ひ pensée にある。この考へを突き詰めると、この肯定は全て我々から出たものであり、要するに、考へること pensée を最初からずつと支へてゐるものだと分かる。希望、あるいは信念、もつとうまく言へばできるかぎり考へようといふ意欲である。

といふのは、細かなことや揺りかごでの望みに立ち止まつてゐれば、どれほど限りない多様性と奇跡があることだらう。錯乱やとんでもない気違ひも、考への自然な流れに過ぎないとも言へよう。ただ、統制がなく、全て注意を要求する物、夢 vision、予感、そして鬼火に対する、心を決めた par décret 軽蔑がないのだ。我々が同意すれば、宇宙はとても流動的になるだらう。だが、それを保つてゐる限り、判断 jugement がこれらのものの王であり、神の子なのである。私は、自分がこの世界を背負つてをり、世界は自分とともに倒れると考へるのが好きだ。心を決めて負けないでゐる、哲学の魂はさういふものだ。

素描だが、理性の王国はかういふものだ。悟性の法は、これとはかなり違ふ。そこで精神は自由を感じることが少なく、自らの力を多く感じる。と言ふのは、どんなに自然が流動的であろうと、そして一度限りの嵐が四季にとつて代らうと、それは、とにもかくにも、距離、方向、力、速度、質量、張力、圧力によつて考へられる他はなく、常に数、代数、幾何が支配するのだから。ただ、物理学は、より難しくなるだらうが、別物になるのではない。この自然の法則は、あるいはこの型は、我々の道具であり器械である。天体の行路が無限に複雑なものであるときでも、それにどこまでも正確さを求めるとさうなるのだが、我々が直線、円周、楕円により、力、質量、加速度によりそれを捉へることは同じだ。これらの要素は運動自体のものであり、運動は型であつて、最初の目覚めの印象imagesにより出来あがつたものとして与へられるのではない。

正確には、法則のない運動は、全く運動ではなくなる。運動を知覚するとは、充分述べたやうに、変化を、変はらない運動体と、飛躍することなく変化する距離といふ考へにより整へることだからだ。運動は、結局、単純な知覚においても、示し直されreprésenté、決められた、分けられないものだ。それ自身が、この変化の法則なのだ。そしてこの法則が完全なものに成り、連続的な軌跡を明らかにするに連れて、運動は、より一層運動となる。真の運動となる。何故なら、それと他の全てとの関係がより良く決定されるからだ。悟性はこの方法によつて、プトレマイオスの体系から現代の体系へと進んだ。見えるところapparencesをよりうまく結び付け、星占ひ達の自然に秩序を齎し、何物も変へることなく、ただ我々のさわぐ心と切り離しながら。

幾何学の着物が自然にぴつたり合ふことに驚く人達は、二つのことを見そこなつてゐる。まづ、数学といふ道具の柔軟性と豊さ ressources である。それは、次第に複雑さを増しながら、輪郭をより正確に描き出し、関係をよりうまく捉へ、力と向きをより正確に測り、そのために直線を曲げることはない。慣性、一様な運動、その他の確固たる仮説のやうな諸原理に、いつでも疑問を投げかけようとする人達がしつかりと掴んでゐないのは、ここである。それは、曲線の運動を記述するために三つの軸を曲げようとする、あるいは火球のために赤道を捻らうとするのと、同じくらい馬鹿げたことだ。しかし、プラトンがうまく言つたやうに、直線が曲線の判事であり、有限の完成されたものが無限の判断者なのである。そして、微分を支へるのは、古い整数なのだ。以上の説明で、全ての知識は経験によるものであるにもかかはらず、法則が先験的だといふのはどのやうな意味かが理解できるだらう。だが、ここでも、考へ idée と物とをしつかり結び付けることを忘れないやうに。

第二の誤解は、自然が、数学的な型の外に、実際にある何物かで、はいといいえを言ふことができると考へるところにある。この誤りは、我々が半ば出来あがつた科学で、すでに我々から適当な距離に押し戻されたものを、自然と呼ぶところから来る。と言ふのは、星が東から西へ動くのを知覚するとは、すでに一つの仮定であり、もつともなものではあるが、太陽や月の遅れや惑星の気まぐれとはうまく合はないのだ。また、運動に関する錯覚も、既に見たやうに、しつかりとした判断から、自然が宣託したのではない一つの仮定から、出てくるのである。我々の誤りは全て考へられたもの pensées である。自然は我々を欺かない。何も言はない。何物でもない。

だが、我々の夢により、これをより良く判断できるだらう。夢は注意不足の知覚に過ぎない。そこで、まだ鎖に繋がれてゐない自然がどのやうに姿を現すであらうかを、すこし窺ふことができる。全て見える姿は物となり、我々の運動は、どれもが、全体の変化となるだらう。我々の思ひ出、計画、恐れは、それぞれが存在となるだらう。怒りと涙の海だ。何の法則もない。だから、我々の仮定した法則が実際に物の法則であると確信してゐるかと問うてはならない。それは、太初の自然が秩序を持ち、運動の背後に他の運動が、対象の背後に他の対象があることを望むことなのだから。さうではない。それはむしろ、天地創造以前の混沌だ。そして、目覚めるたびに、精神が水の上を暫し漂ふといふのはそのとほりだ。そこで、悟性が経験を統べ、理性はそれに先立ち、かうした条件のもとで初めて経験が双方に明かりを提供するのだと言ふことが分かる。


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