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第4章 類比(準へられること)と類似(似てゐること)

注釈へ

青銅の馬は馬に類似してをり、青銅の人間に類比される。この例で、類比analogieといふ言葉がその古い意味を保つてゐることが分かる。それは、感じるためにせよ、働きかけるためにせよ、物体を同じやうな状態に置く特徴の共通性を指すのではなく、関係の同一性を指しており、これは悟性にのみ語りかけるものだ。だから、完璧な類比は一番隠されてゐる。自己誘導と質量の間には、類比があるが、類似性は全くない。坂道と螺子(ねじ)の間の類比は、殆ど類似性を持たない。螺子と風車の間、歯車と梃子の間、電流と水路の間の類比。

だが、ここでは類似性を発明してはならない、想像力を悟性に置き換へてはいけないので。落下と重力との間にも類比。酸化、燃焼、呼吸の間の類比。さらに、発熱反応と重りの落下との間の、化学的に不活性な物体と地面に置かれた重りの間の類比。磁石とソレノイドの間の、電磁波と光の間の類比。円錐の断面と一般の二次方程式の、接線と微分の間の、放物線と二乗数の連続の間の類比。かうして例を無秩序に数へ上げたのは、問題の広がりと難しさを感じてもらふためであり、また、膨大な議論無しでは示すことが出来ない、類比の体系といふ考へを退けるためである。

これらの例について思ひを巡らすと、類比は時に全く類似性を持たぬこと、心を惑はし、比較を証明だと受け取らせる大まかな類似性により、時には複雑になつてゐることが分かる。また、ある種の類比は、ファラデーの仕事が良い例だが、用意された実験により確かめられると言へる。他のある時には、力のある観察者によつて捉へられる。いつでも何らかの簡単な型によつて再構成さ(組み立て直さ)れ、この型は新しい事実を描き出す。ニュートンが、月は地球に落ちて来ると言つたときのやうに。またある時は、紙の上の点や線のやうな手ごろな客体を使つて、純粋な状態に組み立てられる。

おほまかな考察によつても、類比の源と模範は、最も高い数学において見られ、そこでは類似性は取り去られ、客体の相違の中にある関係の同一性(物々の違ひのなかにある繋がりの等しさ)だけが残されてゐるのが分かる。ここで、幾何学者の図形や代数学者の記号は、客体と呼ぶのが良いのだと、注意して置くべきだらう。とは言へ、幾何学が想像力に対して類似性に基づく偽の証明を提供するのも事実なのだ。観察者の眼が、しかるべく、記号の厳密さによつて働くのは、多分、最高の数学においてのみなのだらう。それから物理学者であり、最初は数学者だ。マクスウェルは、電磁誘導を二つの小さな球体の間の大きな球体で表したとき、かうした罠を知つてゐた。この機械的なモデルは荒つぽいので、だれも騙されない。多分、想像力を楽しませて、悟性と歩みを共にさせるのだが、両者の道が交はることはない、さういふ、しつかりと隠された技術があるのだらう。


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