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第3章 観察する悟性

注釈へ

誰でも、考へ idée なしで観察する者は無駄に観察してゐるのだと知つてをり、さう言ふ。だが、普通、人は道しるべとなる考へを物から遠いところに求めすぎる、もつとうまく言へば、物のはづれに探すのだ、力学的な型のやうに。知覚の分析で、我々には物そのものを考へにより決める déterminer 準備ができてゐる。考へは支へであり、骨組であり、物の型である。偉大な論者達がうまく言つたとほりだ。例によつてそれがもつとはつきりする。

ヘルムホルツは、彼の美しい『音響論』の初めで、海の波や舟の航跡を、特に波が交差する所で、長い間観察せよと勧めてゐる。未熟な観察者にとつては、波は水面を走り、その輪が広がる。これは、すでに見かけを整へる概念作用(conception心の動き)を前提してゐることに留意したまへ。ただ、不正確なものなのだ。何故なら、ポンプや器の中の水について誰でも知つてゐることに基づき、かなり急に浸けられた硬い物の生む効果を注意深く見つめると、水は押しのけられるのではなく、その周りで押し上げられるのだ。が、そんな山の形に留まることができず、落ちてきて、新しく物が落ちてきたのと同じ効果を生む、つまり、隣の部分を持ち上げるといふ具合で、順々に。水の揺れは重力の方向であり、あるときには水準よりも高く、あるときは低い。

悟性によつて、見かけをよりうまく整へる、この新しい知覚に辿たどりつかなければならない。それに従つて、波の交はりを見て取る。二つの動きが組み合はさり、時にはある場所で水が動かなくなる。だが、この休みは、二つの系列の波に連なつてゐなくてはならない。さう見えなくてはならない。さもないと、君が知覚してゐるのは、真の客体では全くなくて、形の定まらない見かけだ、初めての目覚めや怠け者の夢のやうに。それに、この秩序は保たれなくてはならない。少しでも気を緩めると、すべてが子供や野人の物理に従ひ乱れる。私はある日、アヌシーの湖でそれに気づいた。岸の石に、美しい反射する波を観察した。だが、物は、悟性の、注意を怠らない見守りのお蔭で、その真の姿で知覚され(感じ取られ)たのだ。波が走るに任せると、すぐに、波の反射は奇跡でしかなくなつた。法則は物と同時に消えた。

他の例で、それがあつて初めて物を明らかに示し出すことが可能となる、この内に在る考へ idée をよりよくつかむことができよう。天体の見かけは、それ自体、天体図示学の本で見る秩序とは、かけ離れてゐる。だが、これらの考へは本の中だけにあるのだ、感じられた物には無縁な記述の言語なのだ、と思ふのは間違ひだ。日々の星の動き、月の東への滑り、太陽のより緩やかな滑り、時に太陽の前の、時に後の金星の出現、他の全ての惑星の巡りと逆行、これら全てはしばしば雲に隠され、いつでも一部は陽の光で見えず、見えない型の体系がないと、記憶にははつきりとしたものを残すことはないだらう。これとの関係で全てが秩序立てられ、測られるのだ。私が言ひたいのは、ただ考へられ、据ゑられて、全く存在するのではない、この天球だ。この世界の軸、この両極、この子午線、この赤道であり、この建物の円天井、柱、弓形の梁だ。

これに職人の手による別の幾何学が対応する、ノーモン、陽時計、子午儀とその分割された円だ。振り子、時計その他の機械は除くとしても。これにより、最も簡単な観測にも、産業全体と全ての科学が、幾何学と協力してゐるのが伺はれる。かうして、月の動きを思ひ描く(自らに示し直す)ためだけにも、人間はどれだけ大きな仕事をし続けなければならなかつたかが分かる。そして、我々が月の距離や、太陽や惑星とその動きを知るのも、また、内に在つて、物の実体にかかはる幾何学によるのだ。例へば、惑星の動きを再発見し、空想的な幻ではなく、きちんとした姿を感じ取るためには、型を変へなければならなかつた。これは重力まで行く。しつかりと掴めば、重力は空の物体の外に在る構築物ではなく、これらの物体の枠そのものであり、むしろ、これらの物を虚ろな夢ではなく物たらしめる型なのだ。見掛けの中に物を発見(見つけ出)させ、そしてそこに自らを発見させるのだ、普段の言葉がかくもうまく言ふやうに。

だが、そんなに遠くを狙はないで、一番簡単な、落ちる石の例を見てみよう。もし私が見ることを知らないとすれば、それは私の目に映る影や私の体の震へに過ぎない。だが、客体としての落下は全く別のものだ。なぜなら、私はその場合、運動、軌跡、状況を描かねばならず、これは私がそれを考へる慣性、速度、加速度といふ型がなければできない。それには、速度を落した落下でも、あるいは計測された落下でも、実験が助けになる。だが、この職人の方法は、型を作り出すことはない。逆に、それを前提としてゐるか、あるいは単に盲人の手探りだ。ガリレオ以前には、物体の落下は、最良の精神にとつても悪い夢のやうであつた。型を持たない実験が、特に数を増やすと、物それだけよりも人を誤らせるといふことは、十分に言はれてゐる。悟性に贋金で支払ふといふのは、統計学の欠点だ。

物を見つめることと、それを感じ取るためだけの、それを表現する(示し出す)ためだけの弛まぬ努力によつて、慣性、速度、加速度、力といふ見えない、考へられた、据ゑられた関係は生まれるのだ。これらは、考へられた距離がこの地平線、この鐘楼、この並木道の知覚に不可欠であるのと同様に、落下の知覚に欠かせない。世界は、法則以前には全く与へられてゐない。法則が見出されるに応じて、世界や客体となるのだ。朝と夕方の二つの幻想的な星が、他の何処でもなく、ケプラーの軌道の上だけで、一つの金星に結び付けられるやうに。かうして、考へにより世界は客体として存在し、ついに見かけは見かけであるのだ。この樹の影が、太陽と全ての天文学と、全ての光学によつてこの樹の影であるやうに。もし無知な者達が、自分で思つてゐる以上にうまく話すことがなければ、この関係はもつと見えやすかつただらう。


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