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第2章 観察について

注釈へ

観察する精神をあまりに宙に浮いて扱ふのを避けるために、三つの主な仕事といふ自然な考へに従つて、観察の方法にも三つあると言はう。思ふに、一番古く、一番普通なのが神子みこの方法で、いつでも人やなじみの動物の方を向いて、これを味方にし、手なづけようとする。誰もが、そして子供でさへも、その小さな輪の中で神子になりたがることに気をつけ給へ。その気の向く先は、いつでも欲望により動かされてをり、意志によつて整へられてゐる場合でも、心はいつも騒いでゐる。これは願ひであり、指図なのだ。医者、魔術師、長は、最後には求めてゐるものを生み、大きくする眼差しを自然に持つてゐる。

人の秩序の中では、さらに家畜の輪の中でも、奇跡は熱い願ひと揺るがぬ望みから、刻々と生まれる。そして、この物理学(物の理り)は一番古く、ロビンソン・クルーソーにとつては別だが、全ての中で一番重要だといふことを忘れまい。また、誰にとつても最初のものだ。子供には願ひのほかに手に入れる手段はないのだから。そこから、味方と敵といふ人間的な秩序によつて素朴に築かれた多くの世界観が出てくる。この向かう見ずな考察は、全てを自分から引き出し、海が船を浮かべるやうに、全ての探求を支へる。デカルトは神に物理を探した。私が好んで悟性の王子と呼ぶこの人の横顔を、時間をとつて眺めて見給へ。そこに、力の備はつた素朴さを見るだらう。だが、然るべくデカルトを扱ふには、より良い準備が必要だ。ここでは、考へは願ひから生まれることだけを理解し給へ。

野心的な考へ pensée とは対照的なものとして、職人の考へを置かう。これは自分のすることしか観察しない。確かな方法であり、現代人の物理を支配してをり、ある意味ではそれを押し潰してゐる。何故なら、ここでは物しか問はれてゐない。そして、物は何を答へることができようか。論者達がはつきりと見たとほり、ただ否定するだけだ。反証するだけだ。機械、梃子てこ、滑車、車、傾いた平面は、全て、力学の原理が深く隠されてゐたころに、すでに知られてゐた。多分そんな訳でプラトンは全ての手仕事を隷属的だと呼びたかつたのだらう。成功するやり方だけでは、考へがやがて道具の列に加へられるのは、明らかだ。無線電信の歴史がよく示すやうに。だから、あまりにも簡単に認められてゐる、実験が方法の女王だといふ考へには、言ひ返さなければならない。ただ、実験的な探究の中での作品と道具の役割を決めれば良いのだ。だが、また、道具や手は止まり、精神が解き放たれた自然に問ひかける必要があるのだ。

かうして、純粋な観察という考へへと導かれる。最初に、空の景色にしか働く場を見つけられなかつたものだ。人はそこでは何も変へることができなかつたので。そこで人は、瞑想と静かな問ひかけにより、物についての考へ自体を形づくることを学んだ。意欲がなく、頑固さがなく、正しい感情がなかつた訳ではない。物はそれ自体何もできず、物の真実は、りごとにより、全て作らなければならなかつたからだ。天球、極、子午線を考へ出した者は、世界の何を変へた訳ではない。だが、既に、そこに秩序と法則の姿を示した。ある意味では召使ひであり、ある意味では調教師である。動かぬターレスの二重の動きは、さういふものだつた。


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