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第6章 デカルト讃

注釈へ

デカルトを理解するために足りないのは、いつでも知性 intelligence だ。しばしば明らかに見えて、人は楽に付いて行くし、さうでなければ、反論する。あらゆるところで、殆ど見通しが利かない。これほど自分自身のために考へた人間はゐない。だが、多分、孤独過ぎるだらう。話すときにも一人きりだ。彼の言葉は、警告はせず、慣例に従つてゐる。デカルトは言葉を作りはしなかつたし、宗教を作り直すこともなかつた。情念 passions や気分 humeurs も変へなかつた。これら全てが、内側から照らされ、その如何にも自然な言葉で我々に伝へられる。言葉の意味を変へるどころか、逆に、それぞれの言葉を同時に全ての意味で使ふのだ。人がさうすべきやうに。

『省察』の神は、普通のおばさんの神だ。彼は、『情念論』をロレットに行くのと同じやうに書く。有名な夜の啓示 illumination は、奇跡であり、また、彼の考へなのだ。デカルトはここでも、どこにあつても、欠ける所がなく、分けられない。これほど自らの身近で哲学した者はゐない。感情sentimentが、何も失ふことなく思想 pensée となる。この人物は全てに自分を見失はず、読者は道に迷ふ。この暗い眼差しはそれ以上の何も約束しない。礼儀正しくはあるが、励ますことも殆どない。そこから、この保守的でかなり人を見下げた、革命を寄せつけない精神を理解せねばならない。なぜなら、彼は若い自分の何物も否定しなかつた。全てを変へたが、構造においてではなく、精神 esprit の中だけで、革命や新しい道なしで変へたのだ。

じつくりと一度考へて、考へ pensée と広がり étendue とを区別すると、彼はもはや混同も、どのやうな困難も恐れなかつた。すべてはその場所に追ひ返された。全ての魂 âme は精神 esprit に返り、物の中には跡を残さなかつた。代りに、全ての動きは広がる物へと追ひ返された。全ての情念(passion さわぐ心)は、恐ろしい物だが、操ることができる、限りある物として、身体の中に捨てられた。だが、これら全てを、読者はあまり考へることもなく受け入れ、他方で、動物機械論は全く受け入れられない。常識が、他のものには簡単に満足するのと同じ理由で、そこでは抵抗する。なぜなら、議論が尽きない細かな理由にこだわつて、著者がここでも同じ事を繰り返してをり、ただより強く言つてゐるのだといふことに気づかないからだ。

即ち、どのやうな物の中にも、部分と動きしかないこと、全ては繰り広げられてゐて、拾ひ上げられた何の神秘もなく、欲望 désir、傾向 tendanceや力 force といふ考へ pensée の芽もない。全ての運動は機械的なもので、全ての物質 matière は幾何学的なものに過ぎない。だから、飼主に気づく犬の動きに留まつてゐてはいけない。それに、人の情念、怒り、ねたみ、恨みは、それでも考へ pensée や推論の方に似てゐる。尤も、それに身を任せるのは気違ひ沙汰だが。といふのは、その中には判断も知識も証明もなく、ただ動作や騒音があるのみなので。だから、動物は考へる、と決して言つてはならない。唯一の証明、例へば自ら描いた三角形の前でもの思ふ犬などが、全くないからだ。それに、この注意がどれだけ多くの人間にも当てはまるか。だが、デカルトの肖像が、人が理解するのを、余り期待せず待つて、やがて3世紀になる。


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