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第3章 論理学或は修辞学について

注釈へ

言語によるある命題が客体に適するか否か(言葉で言ひ表した事が指し示す物に合つてゐるかどうか)を調べる応用修辞学がある。この修辞学は全ての科学に伴ふ。例へば、全ての正しき者は幸ひである、といふ命題を確かめるために、言葉と客体とを調べるのが仕事となる。純粋修辞学は、普通は論理学と呼ばれるが、命題の同値性、言ひ替へれば、言葉は多様でも意味は同じといふことだけに係る。さらに、一つのまたは複数の命題からどうやつて新しい言ひ方を、対象を考へず言葉だけによつて、引出すかを調べるのだ、とも言へよう。全ての心正しき者は幸ひである、といふ命題から、幸ひなる者の何人かは心正しいと言へるが、全ての幸ひなる者は心正しいとは言へない、といふ具合だ。だが、否定形の、不正なる者は誰も幸ひではない、からは、幸ひなる者は誰も不正ではない、と言へる。

ここで客体を考へる誘惑に負けないよう、また、頭の中で幸せや正義についての議論を始めないよう、項を文字で表すのが有益だ。アリストテレスが、すでにさうしてゐた。あるAはBだ、から、あるBはAだ、が言へ、あるAはBではない、からは何も引出せない、といふ具合に。これらの結果を、今日の論理学者達が試みたやうに、ある種の代数で表すことができるだらうといふことが、ここで見える。簡単な例についてここに示した原則は、あの膨大な仕事を判断するのに役立つだらう。それは、それを辿るための苦労から、いつでも過大に評価されてゐる。

同じ項から成る命題の逆については、簡単だが、全ての、ある、どれも~ではない、といつた言葉の意味を掴むのにとても有益な注釈ができる。ある種の一般文法のやうなものだ。全てのAはBである、といふのが正しい命題だと仮定すれば、逆命題の、どのAもBではない、は誤りである。だが、最初の命題が誤りだとすれば、後のは正誤どちらでもあり得る。全てのAはBである、と、あるAはBではないといふ矛盾命題では、さうはならない。なぜなら、一方が正しいか誤つてゐるかにより、他方は誤つてゐるか正しいかが決まるからである。

会話でもかうした言ひ方が使はれる。そこでは、別の命題を導ける純粋な形の推論よりも、命題そのものを調べるのがより有益だらう。経験から導かれた命題は、むしろ仮定形と呼ばれる、もしAならばBだ、といふ形をしてゐる。もし人が心正しければ、彼は幸ひである、と言つた場合のやうに、これは最初の形と同値である。この別の言ひ方は、少し違つた分析につながる。かう推論するのだ。もしAならばBだ。ところでAである、従つてBである。ところでBではない、従つてAではない、なぜならAならばBだからだ。また、Aではない、あるいは、Bである、といふ命題からは、何も導けない事も分かる。最初のものに、もしAでなければBではない、を付け加へておかなければならない。客体は、ここでは何もしない。何が言はれてゐるかだけを考へ、言はれたことに別の言ひ方が含まれるかどうかだけを考へるのだ。

この素描(あらがき)をわづかな言葉で終へるために、この最後の形から古典的な三段論法へと進まう。もしAならBだと言ふかはりに、すべてのAはBだ、と言はう。もしXはAだといふ命題を付け加へると、XはBだ、といふ結論に導かれる。また、AはBを含まない、といふ、もしAであればBではない、の別の言ひ方から、XはBではないと結論する。Xは、同じXでさへあれば、全て、ある、または、一つの、のいづれでも良い。そして、三段論法の最初の形はこれだ。全ての嫉みを持つ者は悲しい、全ての野心家は嫉みを持つ、全ての野心家は悲しい。もし全てのAはBだ、といふ同じ仮定から出発して、XはBではないとすると、あるいは、AはBを含まず、XはBだとすれば、XはAではないとの結論を得る。これが三段論法の第二の形だ。二つの形を導くこの方法は最も自然なのものだと思はれる。その上、私が例による三段論法と呼ぶ三段論法の第三の形とはつきり区別できるのだ。こちらは、もしXが、どれか、全てでも一つでも、同時にAとBであれば、AとBはある場合に一緒になると結論するのだ。あるいは、よく言ふやうに、あるAはBなのだ。型は、全てかいづれか、肯定か否定かで異なるが、それを全て探すのはよい練習になる。注意しなくてはできない。

これらの変形の原則を探し出すのは難しくない。それは、悟性が二つの形の元に同じ考へを認めなければならぬ、といふことだ。別の言葉で言へば、客体を考へないである書かれた考へから別の書かれた考へを引き出すことは許されない、といふことだ。かうして、有名な同一性の原則は、論理学を学ぶ中で、定義された言葉の操作だけで知識を増さうと望む弁証家への警告として、自然に出てくる。これがやや無味乾燥な勉強のご褒美だ。極めて厳密に進めれば、知覚を伴はない全ての推論は、先に進むと、必ず誤りを含むことが充分に示される。これらの誤りは、自然なものだが、人が言葉の意味を客体を考へることにより段々と豊かにすること、それもさう言はないで、気付きさへせずにさうすることから来る。


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