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第4章 注釈

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ここで学校の茂みに狩に行くのもよからう。植物といふ言葉は二とほりに解される。まづ、それが当て嵌まる幾つかのものを指すものとして、つまり集まりとしてであり、この場合は外延(一群の物 extension)として捉へられる。あるいは、ある定義、例へば植物とは種で殖え、大気中の炭素を葉緑素で固定するといふ定義に付随するものとしてであり、この場合には内包(一群の性質 compréhension)として捉へられる。不思議なのは、三段論法をどちらの体系に則してでも読めるといふことだ。外延では、もし嫉みを持つ者に会つてその誰ひとりとして幸せでないとすれば、そして全ての見栄つ張りが嫉みを持つ者の中にゐるとすれば、見栄つ張りは誰一人として幸せではない、と結論しなければならない。これは、一方が他方に含まれる、あるいは互いに交はらない円でうまく表はされる。嫉みを持つ者の集まりは見栄つ張りの集まりを全て含み、幸せな者の円はその外側になるのだ。

内包では、全く別物だ。 もし、二等辺三角形には定義から必然的な結果としてふたつの等しい角があり、そして円の中心にある全ての三角形は必然的に二等辺三角形だとすれば、さうした三角形は全て必然的に二つの等しい角を持つといふ結果になる。あるいは、また、幸せが、いつでも必然的に、賢者の属性だとすれば、そして賢者たることが人間のひとつの属性たり得るとすれば、幸せであることもさうであり得るといふ結論になる。この関係を形にする円を描くことはできるが、苦労せずにわかるやうに、集まり方は全く異なる。なぜなら、今度は定義がある属性を含んだり含まなかつたりするからだ。そして「ある」や「全ての」が、「さうなり得る」と「必ずさうなる」とに置き換へられる。どちらのやり方で読んでも、三段論法は同じやうに進む。二つは、日常的なやり方(vulgaire)と方法論的なやりかた(méthodique)のやうに違つてゐて、一方は多くの例から、他方は考へ idée から証拠を引出すのだから、これは論理学や修辞学が、物や探究には触れず、言ひ方だけに係るものであることを示す、もう一つの印である。

三段論法の三つの型(脚注 1)も、相互に比較すれば、同じ道へと続く。なぜなら、最初の二つは、二つの結び付いた仮定を発展させるので、理論的な証明の表現に適する。三番目の型は全く別だ。なぜなら、それはいつでも例によつて証明するからだ。また、その結論は決して普遍的なものではないことにも気付くだらう。だが、どちらも内包でも外延でも読めるので、論理学には方法論は含まれてをらず、せいぜいその反映を示すのだといふことが分かる。かうして第三型では、主語、あるいは物は中間項であり、結論では消えるのだが、日常的な考へ方は、特に事例の積み上げに打たれるので、個別の存在を掴むのではなく、決まり文句 formules に行き着くのが、これで分かる。他方、最初の二つの型では、主語、すなはち物は、実際に結論の主語となる。二つの同じ角を持つのは、ある種の三角形である。二つの型とも、初めに認めた他の性質から、さうなる。それが畑の場合であつても、用心した上で、かう言へる。この畑が二等辺三角形である程度に応じて、二つの角は等しい、そして誤差はそこに関係してゐる。

このやうに真の科学は自然の物を近似で、すなはち誤差を量的に制限しながら、捉へる。他方、日常では、経験の力により、ある種の蓋然性(確からしさ)に到達する。しばしば、この積み上げによる証明に、帰納といふ名が与へられる。体系的な méthodique 探究では、一度だけの経験でも、理論がそれを十分厳密な枠組に入れれば、証明になる事は、充分に考へられてゐない。経験を繰り返すとすれば、それは証明を強化するためといふより、良く感じ取るためなのである。さて、ほとんど向きさへ分からない茂みに目印の杭を打つに留め、これ以上先には進まぬこととして、かう注意して置かう。その原因を思つてもみないで成功を期待する盲の確率と、トランプのゲーム、湯呑と二つのサイコロ、あるいはルーレットのやうに閉ざされた機械的な体系によつて結果が決まる慧眼の確率とがある、と。ここでは少し何でも話しすぎたことをお詫びしたい。注釈の欠点である。


脚注
  1. 三段論法の三つの型についても、第2章でご紹介した このサイトをご覧下さい。型は格と呼ばれてゐます。

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