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第7章 算術と代数について

注釈へ

ここでの目的のためにはこの二つの科学を区別する必要も、その広がりや深さを述べる必要もない。ただこれらも物についての科学だと考へて、しつかりと知覚された客体の中に、その答が計算者自身にとつても自然の驚異と同じやうに驚くべきものである、変形可能な組み合わせの源を探せば良いのだ。実際には、ここでは数についての経験だけが問題となる。普通の知覚の中では不可能な経験だ。

数の多さは、整理しないと、じきに精神を悩ます。全ての整理は幾何学に係る。一斤のパンを大隊の男達一人一人に配るのは、機械的ではあるが、すでに数へることだ。男達を並べ、その前にパンを並べて確かめることは、すでに等しいといふ関係を考へることだ。だが最も簡単な仕事において束にすることは必要で、それが観察者には最適の客体となる。庭いぢりは規則に従つた間隔と列につながるので、悟性はそこに二つの因数の積の法則を読み取ることが出来る。中に他の(小さな)箱を並べた箱や積み上げた弾では、より先まで進める。

子供の算盤や積み木遊びを馬鹿にしてはいけない。悟性はここで、しつかりと物を知覚する限りにおいて、純粋な状態にある数の関係を見付けるのだ。例へば立方体の一辺を二倍にすると最初の小さな立方体の八倍になると思ひ付くのは、並べられた立方体の列とそれ自体が立方体になるやう積み上げられたものとの数が同じだと認めることだ。あれほどの広がりを持つ科学をこんな些細なことから引出すとはと恐れる者は、客体の知覚における悟性の(物を感じ取るといふ分別の)働きをしつかりと掴んでゐない。小さな羊飼いが見上げる空の複雑は、三足す一がニ掛けニだと知らない子供が見る立方体で出来たこの立方体に勝るものではない。

かうした単純過ぎる見方に対して代数学者達が激しく反応し、これら最初の命題を客体の表現無しで証明しようと努力するのは当然だ。これが成功するのは、数字や文字、記号も筆により分配され並べられ移し変へられた客体だといふ事を忘れるからに過ぎない。そして代数学の全ての力は物自体を考へることを記号の操作に置き代へることから来る。その最終的な並び具合を普通の言葉に翻訳すると答が得られる。より自然な方法だとずつと苦労が多く不可能なこともしばしばだ。学校の算術の問題を代数で扱ふとこの計算する機械といふ考へが充分に見える。それは悟性の仕事を、紙上の符号の配置を見知つて、例へば項をある辺から他方へ移すときに符号を変へるといふ具合で、無謀な変更は決してしない、といふことにまで削減する。

読者は良く知られたニュートンのニ項定理の展開における簡単でしかも多くの組み合わせ持つ関係を思ひ出して欲しい。そこでは特に組合はせの計算が常に簡単なかたまりによつて行はれる様子が見られる。並置された記号a、bに対して記号cには三つの位置があり三つしかないことが分かる。だが何よりも和a+b自身を何度か掛け合はせて項を作ると、指数の続きと係数の対称性の法則が見えてきて、代数学者の用意した経験の中の客体といふものの働きが垣間見られる。多分、行列式は検算に適した素朴な形の繰り返しのよりはつきりした例を提供するだらう。だがかうした関係は代数学のあちこちにあり指摘されるととても目立つものだ。幾何学的な曲線が物理的な関係を表してまだ試されてゐない結果まで示すやうに、代数学は幾何学や全ての物を同じ種類の、より簡単で分かり易い関係で表現する。それは筆により集められ並べられた人工的な客体の間の関係であり、そこに驚きや嵐が起こるのだ。


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