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第7章 自由意志と信念について

注釈へ

自由意志 libre arbitre の方が自由 liberté より良い言ひ方だ。この古い言葉は全ての自由の拠り所である判断者といふ一番大切な考へを内に持つからだ。判断なしでは自由など全くないのは、誰にも明らかだらう。本能が始め、さわぐ心が続く。動機は心を動かす符号でしかない。もし始めに判断が最初の動きをその源に投げ返せば、それだけで違つて来る。この機械仕掛けは、放つておけば、直に釣り合ふ。それに、行動の動機のうちで、いくつかはさわぐ心と同時に消える。これも殆ど生まれてゐないのだ。ほかの動機は、正しい知覚により表現され、結果まで辿られる。道はつひに探検されたのだ。あるいは、あらかじめ訳あつて、私は動機がさわぐ心を一人歩きさせるのを拒否する。調べないといふのも又一つの智慧だからだ。正直な男はどうすれば捕まらずに盗めるかを探つて楽しんだりはしない。ましてどうすれば犯したり誘惑したりできるかなどは。さらには、真つ直ぐ心像へと進み、正確な知覚に還元する。いづれにしても正直な男は、自分の生きるのを眺めて欲望がどこまで連れていくかを知りたがる者とは、遠く離れてゐる。細かなことがらは考へさへしないといふ王者の術を忘れるまい。判断がそれを留めないときには、全ては変はり心像の戯れへと溶け去るのだと賢者は知つてゐるのだから。

かうした記述で、善良な人はそこに自分の姿を見出すだらうが、我々は既に、動機が告訴人や請願者のやうに見える機械的な、しかし幾何学を欠いた(整理されてゐない)、目録よりも遙か上にゐる。ここでは動機は判断者の好意なしでは存在しない。我々は、判断者が動機を重りのやうに調べる天秤を、もつと軽蔑しよう。冷静な狂者といふものが考へられるとすれば、彼はそんな風に考へるのだらう。また次の点にも注意しよう。それは、私が心理学者として散歩について自分が思ひ廻らすのを分析すると、私の動機は物のやうに離れて見えるといふことだ。だが何故だらう。そのとき私の判断は、散歩ではなく、必然と自由意志を調べてゐるからだ。自由な行ひの経験は、自由意志の問題について考察する代はりに、自由に動くことにしかない。だから自由を教授の示す例の中に探してはいけない。

実行についても同じ種類のことで、言ふべきことが多くある。実行には一連の行動と道筋が前提となるのだから。この道を辿ると眺めが変はり、少しでも眼を止めれば、動機が明らかになる。じつくり考へるには一度ならず試さねばならぬこともよくある。行動もまた、調査のやうなものだ。また、不用意に決めたことに自分を縛り付けるのは、心がさわいでゐると有り勝ちだが、馬鹿げてゐる。一度走り出せばもう止まれないといふよくある考への中に、私は運命論的な偶像を見る。これが片意地といふもので、いつでも怒りを含む。逆に、一貫した意志は一度決めれば事足れりとはせず、障害物でも決して止まらない。さうなると粘り強さであり、探求と新たな熟慮によるものだ。どこにも二つ以上の道があり岐路がある。意志といふものは、決定よりも、自らに対する変はらない信頼や一歩ごとの虚心坦懐な視線により、自らを現す。

また動かす力についても考へねばならない。妨げられた努力の感じを考へながらこれを描き出すのはまづい。注意が丁度そこに行つてはいけないところに引き戻されるからだ。行動する力は、先づ持続した意志により、身体が言ふことを聞くやうに常に力みをほぐす体操により、働く。行動の最中には、注意は身体から完全に離れる。ピアニストは音楽を考へ、指が思ひ通りに素早く従ふのは、人の言ふとほりだ。自由な人間をよく見れば、動く魂が機械の中の機械工のやうに体の中に隠れてゐるといふ考へから完全に解放されるだらう。考へが斥候として進み、身体がそれに随いて行くといつた方が良からう。だがこれも機械的な心像だ。精神は同時に外と内にある。決して客体や物ではない。決して押されも、押しもしない。

私は自由意志を、隠されたバネでも見せるやうに、諸君に見せることはできない。精神は自らを掴めない。自分の考へは客体の中でだけ見つかる。自由意志を存在する物の一つに数へることはすまい。それを失ひ得るのは明らかだ。それに同意するだけで充分なのだ。それを解き放つことが出来る者は自分の他にはゐない。だから想像上の障害を取り除くだけで満足しよう。省察ではそれ以上はできない。仮に自由意志の証明が何かあつたとしたならば、私はそこから諸君に説明しただらう。ルヌヴィエはこれを別の言葉で言つた。肝腎なのは、自らを自由にせねばならないといふことだ、と。つまり欲することだ。これは意味のない注意ではない。私が自由たれと望むとすぐに苛立つ人達が多いのだから。だが君の意に反して自由であることを恐れるな。私はそこで何もできない。ここに信念の純粋な姿がある。ここで、長い間その本来の対象から逸らされてゐた神学の証明が現れる。神なのは信念そのものなのだから。

善を信じる必要がある。それは無いのだから。例へば正義を。それが存在しないから。正義が愛されるとか望まれると信じるのではない。それでは何を付け加へることにもならないから。さうではなく、私がそれを為すと信じるのだ。マルクス主義者は正義が我々がゐなくとも力によつて作られると信じてゐる。だが、この考へを辿つてみるが良い。この作られる正義はもはや正義ですらない。諸物のある状態に過ぎない。私がそれついて持つ考へも同様だ。そしてもし全てがひとりでに成るのならば、また私の考へも同様ならば、どの考へも他のより優れてゐるといふことは無くなる。誰もが諸力によつて持つことを許される考へしか持たないからだ。我らがマルクス主義者は、一つの真実が別のものに取つて代はるのを待つてゐるのだらう。私は、ある人達が気の向くままに生きるやうに、気の向くままに考へるかうした思想家達を知つてゐる。真の思想家は気違ひで、精神にやつて来るものを信じるのだといふことになるのか。この地獄から戻つて来よう。治りたがらない病人は放つて置くしかない。


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