ホーム >  『81章』目次 >  第4部目次 >  第8章

第8章 神、希望、慈愛について

注釈へ

誰だつたか、間違ひなく強い自由な精神を持つた英国の哲学者が言つた。神といふのは暴君等に一番便利な考へだ、と。用心のために無神論者となる一つの理由だ。自由が先頭を進むのだから。もし私が神を信じるとすれば、いつも用心深くだ、と敢て言はう。二人の審判者は多すぎる。一人しか要らない。かうして私は、決して神によつて真や正しさを判断しはしない。逆に私が真実であり正義であると知つてゐるところから、神を判断するのだ。これは支配者の神に対する慎重な対応策だ。諸君が、神は実際に真実で正義であるところの全てだと言ひ逃れるとしても、私はさうであるものよりもさうするものの方が上だと考へたい。これは、在るものはどれも神ではないと言ふことになる。私が物(客体)を掴むか、物(客体)が私を掴むかのいづれかだ。そして、完璧を讃へるべきだとすれば、それを判断する者については何と言ふべきだらうか。だが、それ以上の者がある。それを為す者だ。正しく、勇気ある善良な人間が現れれば、私は必ず讃へる。この点で、私は神も悪魔も恐れない。

だが多分、神とは感情に固有な対象なのだらう。自由意志が信念の対象であるやうに。私は私の行動の全てに神を感じ、私の兄弟たる人間達も私のやうに感じるのだから。だから彼等は理解できないものをあんなに急いで崇めようとするのだ。空想的な信仰は誤つた知覚によるものだから言はないとして、何にも負けぬ理念を手に入れ、それについて自分の師に敬意を表しない人間は殆どゐない。この動きは美しい。それは人を弱く怠惰にする小さな目的から自分を救ふための一つのやり方に他ならない。

神に仕へ神を崇める、これは動物の群や欲望を持つた人々には、響きの良い言葉だ。さう、仕へるのであつて、神が我々に仕へるのを望んだり待つたりするのではない。また聖なる書物の山の中で、私は弱く裸で何も持たぬ神の姿を力強く心を打つものと見た。神は受け取るものだけを与へるかのやうだ。むち打たれ磔られた神、決して強ひることなく求め待つ神、しかし人が懇願するのは決して無駄ではなく、あたかもその徳の全ては祈りの裡にあるかの如き神、慰めるが復讐せぬ神。だが、神学が想像と論理の戯れで、全てを台無しにする。迫害者の動きの方が、盲滅法ではあるが、正しい。彼等は神のために復讐するからだ。

私を取り巻くこの世界は、私にとつて見知らぬものではないし敵でもない。真の地上の子として、私は諸物の様子、時や四季の移り変はりを愛する。空想によつてではない。魑魅や飛び回る妖精のやうな空想的なものが、家や人々を愛するやうに仕向けることは、注目すべきだ。自然への愛情は、真つ直ぐな知覚がそこに平和と秩序を見つけないと出て来ない。諸物を信頼し、どんな奇跡も恐れないでゐられる、すると孤独を愛するやうになる。最後に、どんな恐ろしい物でも正しく知る術がある。多くを約束するのではないが、決して欺かないものだ。何が起こるとしても、いつでも秩序と限度がある。この精神の安らかさにより、自然が有利で心地よいときには、我々の感覚の喜びは倍になる。人間の恩恵はむしろ心配すべきで、ジャンジャックがなぜ街を逃げ出したのか、私には分かる。

しかしながら友情はその上にある。友情であり社会ではない。社会とは強ひられた友情のやうなものだ。友情は自由な社会であり、そこでは逆説そのものが、通ひあふ思ひを更に浮かび上がらせるので、喜びとなる。もし世界が一つ、真実が一つしかないとすれば、魂も一つだけでなければならない。確かにこれが完全に理解されることはない。しかし諸物、特に人との係りがなく我々には届かぬ諸物を見る折りに、それを強く感じることがしばしばある。この全ての魂と全ての物との血のつながりについては何の考へも持つことはできないが、我々は自分の一番善い志が諸物の中に、そして人々の間にさへも道を見出すだらうと信じたがる。かうして希望が再び生まれるのだが、いつでも信念が先頭を歩く。二つの諺がその証拠となる。「神は自ら助くる者を助く」と「運命は大胆な者を愛する」だ。恩寵と祈りの教義は、人間の秩序を無視することができなかつた。恩寵の権利を罪人の望みに従はせねばならなかつたのだ。客体としての神は重すぎる。

人間を愛するには、より多くの強さ、自らを頼む心、一貫性が必要だ。私が言ふのは予断を持つて愛することで、友情によるのではない。さわぐ心や無秩序に負けず、時にそれよりも酷い社会の秩序にも負けず、恨み、諸君を狙つたもののことだが、にも負けないで。自分の敵を愛するに至らない人達は、友情や同情の動きを待つてゐるのだ。私がここで述べる愛情は全て意志に基づくものだ。それは真つ直ぐに鎖につながれた理性へと進む。徴(しるし)が欠けることはない。だからこの希望は他のものよりも強く、揺るがない。報酬を受けることは少ないとしても。その名は慈愛だ。宗教の智恵が、これを信念と希望とともに徳として挙げてゐる。このことから、ここでは善意だけで充分であり、最も良い気分でもそれに代はることはできないのに気づかされる。これらの徳は、哲学者が忘れてゐることが多すぎるものだが、どんな種類の行動も決めることはない。だが全ての行動を照らすので、私はこれを全ての道で先に捧げ持つべき三つの明かりとしてここに置いた。


第7章 < 第8章 > 第9章

ホーム >  『81章』目次 >  第4部目次 >  第8章

Copyright (C) 2005-2006 吉原順之