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第1章 幸せと退屈について

注釈へ

全ての人間は幸せを追ひ求めると、よく言はれる。私はむしろ、人々は口先だけで、 他人の意見に従つて幸せを望んでゐるのだと言はう。幸せは追ひ求めるものではなくて、 持つてゐるものなのだから。持つてゐなければ、それは言葉でしかない。しかし、 人はいろいろな物には高い値段を付けるのに、自分につける値段は低すぎるのが普通だ。 また、ある者は富から、ある者は音楽から、ある者は科学から満足を得ようとする。 しかし、富を愛するのは商人であり、音楽は音楽家が、科学は学者が愛するのだ。 アリストテレスがうまく言つたやうに、現実の動きによつて。だから受け取ると楽しい ものは何も無く、やれば、殴つたり殴られたりでさへ、楽しくないものは殆どない。

かうして全ての苦労が幸せの一部となり得る。馬を馴らすやうに、決まりのある難しい 仕事のために背負ふ苦労であれば。自分で仕上げたのでなければ、庭は美しくない。 勝ち得たのでなければ、女は美しくない。権力でさへも、苦労せずに受け取つたので あれば、退屈だ。体操選手は跳ぶことで、走者は走ることで幸せを得る。見物人には 慰みしかない。だから子供達が走者や体操選手になりたいと言ふとき、正しい道を 見失はず、すぐに始めるのだが、すぐに間違ひを犯し、苦労を素通りして目的に達した 自分を想像する。父親、母親達は一瞬身を起こすが、また座り込む。しかしながら 体操選手は自分がやつたこと、やらうとすることで幸せだ。腕や脚でお浚(さら)ひし、 試してみて感じ取る。高利貸、征服者、恋人はそんな風だ。それぞれ自分の幸せを作つてゐる。

幸せは想像の中で遠くにあるときに美しいので、それを掴まうとすると消えるのだ、 とよく言はれる。これは曖昧だ。よい走者は休んでゐる時に想像の中で幸せだと言へば 言へるから。しかし、その時の想像は、身体といふ彼の仕事場そのもので働いてゐる。 走者は冠の何かを知つてをり、それを得ることは美しく良いことだと知つてゐる。 冠を持つてゐることではない。また、かうして全てを整へるのが、動きの効果の一つで ある。ただ、人は誰でも手の届く言葉による想像からも幸せを期待することができる。 この別の想像は待つことと心配で自らを費やす。最初の経験は苦痛しか与へない。 かうしてトランプの遊び方を知らない者は、そこにどんな楽しみを見つけられるのか訝る。 受け取る前に与へねばならない。望みを物ではなく自分に向けなければならない。 幸せは確かに報酬ではあるが、求めずにそれに値した者に与へられる。かうして我々は 欲することで喜びを得る。喜びを欲することによつてではない。

ここで私が扱ふのは、本物の悪ではない。これに対しては、各自の慎みと蓄へられた 智恵が力を尽くすのだが、決して十分ではない。扱ふのは、我々の誤りのみに起因する ため、想像上のものと言へる悪だ。退屈から始めたのもその理由からだ。これは 形のない悪で、蔓延してをり、おそらくさわぐ心全ての隠された源だ。それは退屈する 心だ。身体が力にあふれ休んでゐるときには、ある種の身体の退屈もあり得よう。 そんな時には脚は自分で走りだすだらうから。しかし同時に解決策も遠くない。 この短い動揺がすぐに遊びか活動になるのは、動物の場合にも賢人の場合にもみられる とほりで、彼等はこの動きを省みない。退屈は両者の間にあり、暇と力が前提だが、 そこから生まれる訳ではない。これら二つは善なのだから。

退屈は、教義の誤りにより、 全ての試みを非とする判断から生まれる。活動が初めから楽しいことは決してない。 我々に何かを学ばせるのは、必要性でしかない。従つて、決して得られるだらう楽しみ や、まして幸せを決めつけてはならない。幸せは我々に強ひはしないのだから。しかし、 もしそんな風に決めると全ては失はれる。「わたしはそこに楽しみを見いだせると 確信したい」と言ふのは馬鹿げてゐる。だが、「私はそこに何の楽しみも見いだせないと 確信してゐる」と言ふ人は、気の毒に思ふ。従つて第一に、退屈する人間は苦労なしに 多くの物を持つてゐる人間で、それらを手に入れるために多くの苦労をしてゐる他の人達から 羨ましがられる。そこから「私は幸せでなければならぬ」といふ致命的な考へが出る。

第二に、この人物は美しい物を多く持つてゐるので、趣味が悪くない。そこから、何か しようと試みると、比べすぎることになる。描いた、歌つた、詩を作つた最初の楽しさが、 自分の作品に対する軽蔑により損なはれる。良い趣味は年寄りの粧ひだ。第三に、この人間は 礼儀正しく、自分自身への力を欠いてゐない。そこで自然な出発を皆、「私は幸せになれない」 といふもつと致命的な決定で止めてしまふことができる。かうして彼は一つの性格を作り、 経験がそれに応へるのは、予想されるとほりだ。この眼は全ての喜びを枯らす。 しかし喜びを諦めるからではない、喜びに飽きることはないのだから。食べ過ぎたので 食物を拒む人とは全く別だ。むしろ気から病んだ者が食事療法を自らに課してゐるのに 似てゐる。この自らについての判断は、実際の経験となるのだが、これについては充分に 考へられてゐない。例へば自分は不器用だといふ思ひにより人はさうなる。或いは臆病に なり、或いは欺かれ、或いはトランプで運が悪くなる。しかし、幸運な偶然もある。 ところが退屈した者は全てを経験する。この実現することが余りに多い自分についての 予言全てについて、彼がある種の精神的な慰みを見出してゐることは勘定に入れないと しても。これは生まの姿のさわぐ心だ。


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