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第2章 賭事でさわぐ心

注釈へ

退屈が高じると、一つの治療法として賭事に心をさわがせることがよくある。だが、さわぐ心はどんな場合でも他のものへの退屈を隠し持つてゐると言ふべきだ。それも、決めこんでさうしてゐるのは、後で見るとほりだ。ここでは全ての財産を賭ける運任せの勝負事について考へよう。先づ、賭けさへすれば儲かることは逆の場合よりも可能性が低くないといふ意味で、普通の慾よりも勝ちたいといふ慾には餌が多いことに着目しよう。賭事への熱中はここから始まることもある。しかし多くの場合、退屈と真似で始まる。慎めば守銭奴だとかお利口だとか思はれ、これは我慢しづらいので、余計にさうなる。いづれにせよ、儲けたいといふ欲は、自分の運を試したいといふ欲により、すぐに影が薄くなる。素朴な賭人(かけて)はどんなカードが出るか、どの種類か、どの色かを見抜いたと信じてゐることに着目するのもよからう。

この予感が常に外れるといふことはないので、輝かしい勝利が来る。損してゐるときでさへも。儲ければ、この不思議な力を、自分と物との間の天恵の調和のやうに楽しむ。この気持ちは小さなものではない。かうした偶然で古いミイラも子供に返る。この運試しが閉ざされた世界で行はれ、直ちに曖昧さのない答が返される点を付け加へよう。また、自由はないのだが、新たな試みが前のものに左右されない世界だ。その結果、運命論の偶像が崇められ、他方で、全てが因果を避けられない世界で実際に試みる場合によく出会ふ絶望が全くないことになる。逆に、偶像崇拝の素朴な信仰は、そこに自分の場所を見つけ、そこでは希望は常に若々しい。そして現実の世界が決して短気な者の思ひどほりに応じないことは、誰もが知つてゐる。決して白でも黒でもない。答は、希望を信念の後に置く厳しい決まりに従つて、自分から引き出さねばならない。しかし賭事はいつでも白か黒かで答へる。続けるのではなく、出直せる。

しかし、罠を良く見給へ。賭事は待つて呉れない。最初の予告の動きで、走り出さねばならぬ。ここで身体の動きにより感じるのは、慾だけではない。それは呼びかけであり、前触れだ。これは全てのさわぐ心を明らかにする。そこでは常に予感が役割を果たしてゐるから。しかし賭事では機会は速やかに去り、何も残らない。そこでは走らねばならないのだ。抵抗すれば、その徳は直ちに後悔といふ罰を受ける。さうなると自らへの約束を断つことになる。かうしてそれぞれの賭人(かけて)に賭ける術が染み込む。自分自身の身体に訊ね、ためらふことなくそれに従ふといふ術だ。ところで、心臓が打ち、筋肉が活動してゐる限り、予言には事欠かない。だが待て。これも冗談でしかない。最後の審判を待ち給へ。と言ふのは、特に若者の場合、精神は本物の世界と人生全体を素早く考へ直すことができるからだ。

多くの教訓を得て、運命論的な判断は、ルーレットがあつても、仕舞ひには現在と未来を結びつける。そして、大きな賭事では誰も運命を逃れられないといふ有害な信念が出来上がる。そこから全てを、そして自分を捨てようといふ望みが出てくる。賭事でさわぐ心は、しばしば賭人をさうして終はらせる。多くの自殺で、結果についての恐怖よりは運命論的な考へ方、心を揺さぶる像は全て従ふ他はない命令なのだと良く分かつてゐるといふ考への方が、多く働いてゐると私は考へてゐる。この運命の力は、さわぐ若い心の全てにある。人が愛する者を殺したり、闘ひに死場を求めるのは、かうした動きによるのだ。そこで古人は、ジュピターは滅ぼさうとする者達の眼を塞ぐ、といふ諺を作つた。

しかし、これは見物人の物言ひだ。もし彼が死に走ることを望むとすれば、本当の術は彼にそれを隠すことではなく、それを避けられないものとして見せて、同時に、彼の身体の動きがそれを予告するやうにすることだ。これは眩暈の正確な記述に他ならない。賭事でさわぐ心は、如何に人が自分の奴隷になるかを見せるのに適してゐる。外側の災難は一時的で、その後に起こることを決めるものでは決してないのだから。他のさわぐ心は皆、人間と諸物に働きかける。愛情は愛情を生み、憎しみは憎しみを、怒りは怒りを生む。かうしてある意味でさわぐ心は我々を外部の必然に服従させる。賭事の楽しみ、運命論そして不幸の渇望が主なものではあるが。だが、これらの奇妙な狂気を、一つづつ書き表して行かう。人は、考へを掴むことではなく、考へにより掴むことで力を得るのだから。


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