ホーム >  『81章』目次 >  第6部目次 >  第3章

第3章 正直について

注釈へ

人が、抽象的な理由や感情から、嘘をつくことは決して許されないと示すと、徳のためには無益なことをしたことになる。適用できない法律は他の法律の権威を少し損ねることが知られてゐるのだから。議論を正義といふ上位の法則に従はせる方が良いだらう。しかし、また、嘘の中には自らへの害や衰へがある。従つて正直といふ徳がある。とは言へ、それは日常の議論の平面に位置するものではない。そこから、多くの嘘が許され、ある嘘は褒められたり確かに立派であるといふことが起こる。

法律は名誉毀損を罰する。ここでは最も厳しい慣習と法律が一致してゐる。これで、いつでも、全ての物、全ての人について腹蔵なく語るのは、褒められないことが分かる。証人は判事に事実を述べねばならないが、誰にでもといふ訳ではない。昔の過ちで、今や贖ひ償はれてゐるのを思ひ出させることは、誰も良しとしないだらう。従つて、黙つてゐるのが良いことはしばしばだ。そして黙つてゐるといふのは、厳密には既に嘘をつくことだ。しかし、正直といふものがあるのは、このやうな平面ではない。自分の考へは全て友達に明かすべきだ、などとは、口にさへしないやうに。この、厳密であることを望んではゐるが、自らを欺かないでは定式化できない倫理の中にしばしばある二枚舌と卑怯はどうだらう。

何だつて。私は友に、君には痩せ、疲れ、老い、平板な語り口、弱さや年齢の厭ふべき印である機械的な繰り返しが見えると言はねばならないのか。ずつと以前に許した過ちを思ひだしたら、私はそれを思つてゐるのだと彼に言ふだらうか。あるいは、どうしても気になる身体的な醜さを見つけたら、それを彼に言ふだらうか。否。逆に私は彼の一番良いところを目覚めさせ、それで他の点を補ふやうなことを言ふだらう。あるいは、私は人が悼んでゐる死者の欠点や卑怯を思ひ出させるだらうか。とは言へ、時には、さうした事柄を見ようとせず、隠さうとすることが卑怯だといふこともあり得るのではないか。確かに。だが、それを言ふことの方がなほ卑怯だ。心に浮かぶことを言ひたいといふ欲求について、誤解すまい。この欲求は動物的なものだ。我々を衝き動かし、心をさわがせるものでしかないのだ。狂人は何でも心に浮かぶことを言ふ。

かうした狂者で閉ぢこめられてゐないのがたくさんゐる。私は、相手の顔に自分の気分を投げつける、あの狂つたやうな饒舌が好きではない。私はそれが自分の中にあるのも憎んでをり、一度ならずそのために顔を赤らめることがあつた。年齢と、友人の好意と、孤独を好む趣味により、少しは治つたとしても。初めて会つた人に思ひつくままを言はないことには強い根拠がある。その人について全く考へてゐない、といふことだ。また、この最初の動きに正直であるほど、人を過たせるものはない。言葉の使ひ方には、しばしば他人や自分の将来が懸かつてゐるので、もつと注意が必要だ。気紛れで言はれたことに拘ることほど、よくあることはない。

しかし、自分を許すことができ、さらには悪く言はれたこと、悪く思はれたことを忘れることができるとしても、相手の記憶の中からそれを消すことはいつもできるとは限らない。人間は褒め言葉は簡単に信じる、と言ひ過ぎなのだ。傷つけられる言葉はもつと簡単に信じる、と私は言はう。時には悪いならず者の正体をあばき、罰することが、あるいは、その者の勝利を少しは傷つけることが必要だとしても、それは裁判の問題だ。しかし、この厳密な義務を別にすれば、気分やさわぐ心の経験は、我々に待てと教へる。そして、他人についての意見が、敢へて非難するに足るほど確かなことは、決してない。非難はどれも重いのだ。特に子供に対して、良いことでなければ、彼らをどう思ふか言つてはならないと私は考へる。もつと良いのは、最良の部分だけを信じることで、これは大人でも同じだ。そして、時には全てを秤に掛けることなく話さねばならないのだから、自分や他人ではなく、物について話すべきなのだ。なぜなら我々の判断は物には影響しないので。

教育や礼儀は、経験と結果により、さうした慎重さへと導く。よく人は、この善意は偽りだと言ふ。それは全く間違つてゐるわけではない。悪意ある考へを強める誤魔化しもあるのだから。また、心の内で饒舌に、平板な話やお世辞の憂さ晴らしをするといふこともしばしばだ。この状態はさわぐ心のうちで最も激しいものだ。悲しみや怒りに、話すことの恐れ、気付かれるのではないかといふ恐れが加はつてゐるのだから。締め付けられた生命が、さわぐ心に出てゐるのだ。この動揺が臆病さに加はる。しばしば臆病さの全てがそれで説明される。かうした人達がゐると、会話が空虚で退屈になる。彼らの仕事は、たくさん話しながら何も言はないことだ。

礼儀の中に徳があるのは、人がそれに譲歩して、礼儀が隠すことを強要する判断を去るに任せ、消えるに任せる程度次第なのである。その結果、礼儀は、さわぐ心を持ちそれから離れない人達にあつては嘘であるが、その時々の気分だけを自らに許す、あるいは真剣にさうしようとする人達にあつては正直なのだ。そして、嘘をつかないのには二つの方法がある。一つは思ひつくままに言ふことで、何の価値もない。もう一つは、気分の即興を信じすぎないといふことだ。さう取れば、礼儀正しい会話は良いものだ。アルセストは、正直になる方法を間違へた。正直が容易になるためには、善意と智恵の努力が必要なだけだ。

考へ自体については、よく研究され、読書や討論、全ての道の探索、そして全ての試験によりはつきり確かめられてゐるものであつても、それを言ふ必要性は義務だと理解してはならない。しかし、その心地よさは強いので、作者の告白には事欠かない。そこを譲る場合でも、いつでも書き物でするべきだ。記憶は余りにものを歪めるので。常に緻密で走り読みができないやうにすべきだ。また、全ての微妙な陰影や疑問を書き、二つ以上の意味を持つ調子で書くやうに。立派な古典的な言葉は、これを愛する者にさうした書き方を許すし、それに報いる。


第2章 < 第3章 > 第4章

ホーム >  『81章』目次 >  第6部目次 >  第3章

Copyright (C) 2005-2006 吉原順之